春は、香りとともに。




  ***
 

 ふたり並んで、簡単な朝ごはん……というか昼ごはんを作る。
 昨夜買ってあった豆腐とわかめ、残っていた葱を刻む私の隣で、先生が卵を割る手つきは少しぎこちないけれど、やさしかった。


「志野子さんは、甘めの味が好きですか?」

 「はい。でも、先生のお味も知りたいです」

 「……それは少し照れますね」


 そんな他愛ない会話が、どれだけ愛おしいものか。
 味噌汁が煮える音、土鍋のご飯がふつふつと湯気を立てる香り。
 すべてが、ふたりだけの朝をつくってくれていた。

 簡素だけれど、やさしい朝ごはんができあがった。
 湯気の立つ味噌汁に、炊きたてのご飯、焼いた鮭と漬物。


「旅館みたいなごはんですね」


 その言葉に私は思わず吹き出してしまって「それなら、女将にならなくては」と返す。
 すると、彼が静かに箸を置いて私の手を取った。


 「じゃあ、私は……ここの主になってもいいですか?」


 ……心臓が跳ねた。

 彼の手の温かさは、昨夜よりもさらに近くて、深い。
 指先を重ねるだけで、どれほど想いが伝わるのかを私は初めて知った。

 食事を終えた後、私は小さな鏡を前に髪を整えようとした。
 髪を結うという行為は、娘時代から変わらない習慣だ。前はセツがやってくれていたけど……


 「……志野子さん。よければ、私が結いましょうか」

 「惟道さんが……?」


 鏡越しに目が合う。

 少し照れたような笑みの中に、真剣な眼差しがあった。


 「結ってみたいと思ったんです。あなたの髪を、ちゃんと見てみたい」

 私は小さく息を吸って、頷いた。

 椅子に腰を掛け、先生の指先が私の髪に触れる。

 まだ少し不慣れな動き。けれど、丁寧で……とても、やさしい。


 「髪……長いですね」

 「はい。……昔から、父が切らせてくれなかったんです」

 「とても、似合っています」


 その言葉が、なぜだか、胸に深く刺さった。こんなふうに、私の髪に触れてくれる人がいる。
 この日常が、これからも続いていくのかもしれないと思った瞬間、私は目頭が熱くなるのを感じた。