春は、香りとともに。





  ***


 惟道は、そっと志野子を抱き寄せた。

 彼女の髪から香るほのかな梅の香と、春の夜の空気が混ざり合い、まるで時が止まったように、ふたりの世界だけがそこにあった。

 志野子の肩がかすかに震えているのがわかった。
 それは、寒さではなかった。


「……こわくは、ありませんか」


 問いかけると、彼女はゆっくりと首を横に振った。


 「先生となら、こわくありません」


 小さく、でも確かな声だった。

 邸宅の離れにある小さな和室へ、ふたりで移った。
 障子の隙間から月明かりが差し込み、古い畳にやわらかい陰影を落としている。

 惟道は彼女の上掛けをそっと肩から外し、両手でその頬を包んだ。

 「……あなたは、本当に強い方です」

 「そう、見えるだけです。……ほんとうは、たくさん泣きたかったんです。
  でも、泣いても誰も迎えにきてくれないと、思っていたから」

 「――これからは、迎えに行きます」


 彼女の瞳が、驚いたように惟道を見つめる。


 「どれほど遠くにいても、どれほど暗い場所にいたとしても、
  必ず、あなたの手を取りに行きます」


 志野子の目に、涙が浮かんだ。


 「……先生」

 「志野子さん。――今夜、あなたを、抱いてもいいですか」


 彼女は小さく、しかしはっきりと頷いた。

 そして、ふたりの唇が、そっと重なる。