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惟道は、そっと志野子を抱き寄せた。
彼女の髪から香るほのかな梅の香と、春の夜の空気が混ざり合い、まるで時が止まったように、ふたりの世界だけがそこにあった。
志野子の肩がかすかに震えているのがわかった。
それは、寒さではなかった。
「……こわくは、ありませんか」
問いかけると、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「先生となら、こわくありません」
小さく、でも確かな声だった。
邸宅の離れにある小さな和室へ、ふたりで移った。
障子の隙間から月明かりが差し込み、古い畳にやわらかい陰影を落としている。
惟道は彼女の上掛けをそっと肩から外し、両手でその頬を包んだ。
「……あなたは、本当に強い方です」
「そう、見えるだけです。……ほんとうは、たくさん泣きたかったんです。
でも、泣いても誰も迎えにきてくれないと、思っていたから」
「――これからは、迎えに行きます」
彼女の瞳が、驚いたように惟道を見つめる。
「どれほど遠くにいても、どれほど暗い場所にいたとしても、
必ず、あなたの手を取りに行きます」
志野子の目に、涙が浮かんだ。
「……先生」
「志野子さん。――今夜、あなたを、抱いてもいいですか」
彼女は小さく、しかしはっきりと頷いた。
そして、ふたりの唇が、そっと重なる。



