「名前で呼ばれると、子どもに戻るような気がしますね」
「はい。……でも、今の私は、あの頃の私ではないと思うのです」
彼女は、少し恥ずかしげに笑った。
「今は……誰かの隣で、桜を見たいと思う自分がいます」
その言葉に、胸が締めつけられた。
惟道は、迷わず言葉を返す。
「志野子さん。……あなたと見る桜が、一番美しい」
志野子が、はっと息をのむ。
「あなたと、今日という日を迎えられて、本当に……ありがたいと思っているのです」
言葉にすることが、こんなにも難しいものだとは知らなかった。
けれど、目の前の彼女に、今だけは正直でいたかった。
惟道は、彼女の手をそっと取った。
「……冷えていませんか?」
「いいえ」
志野子の声は、わずかに震えていた。
「先生、わたし……今日は、少し、甘えてもいいですか」
その問いに、惟道の胸が高鳴る。
「あなたのすべてを、拒むものなど、何ひとつありません」
ふたりの距離が、静かに近づいていく。
そして惟道は、桜の木陰でそっと彼女を抱きしめた。
ふたりの体温が、春の夜をあたためていく。
その香りも、息づかいも、すべてが胸に染み渡っていった。



