春は、香りとともに。




 かつての自分――令嬢としての過去、家の名、父母、失った土地――すべてを抜け落ちた今の自分に、どこか重なっているようで、胸の奥がじんと熱を帯びた。


「志野子さん」


 名を呼ばれて、ゆっくりと目を開けると、惟道が彼女を見つめていた。
 
 惟道は一呼吸置き、続けた。


「この家を……共に守ってくださる方を、探していました。香道は、一人では続けられないのです。香炉に火を入れ、炭を組み、香を聞き、語り合う――そのひとつひとつに、“対”となる心が必要です。あなたのような方に」


 それは――明確な“縁談”ではなかった。
 けれど、確かに“心を寄せる”言葉だった。


「……なぜ、私に?」


 志野子は、震える声で尋ねた。

 美しかった妻を亡くした香道家が、今さら“没落令嬢”に何を見たのか。
 着物も褪せ、名も失い、借金を背負った女に、なぜ“香の道”を託そうとするのか。


「あなたは……空蝉に似ている」


 惟道の声は、深く、揺らぎなかった。


「抜け殻ではなく、そこに香りの記憶を留めている。……失ったものを、ただ惜しむのではなく、それでも香り続けようとする。私は……そういう人を、傍に置きたいと思ったのです」