春は、香りとともに。



 【惟道side】




 夜の庭に、ほんのりと桜の香が残っていた。

 冷たすぎない夜風が、袖を揺らす。
 志摩の旧邸。かつて志野子が育った邸宅は、今では人の気配もなく、静かに時を止めたように佇んでいる。

 惟道は、その庭先に立ち、足音ひとつ立てず、咲き残る桜を見上げていた。


「――ここは、志野子さんが小さかった頃によく遊んだ場所だそうです」


 そう語ったのは、かつての奉公人から聞いた話だった。
 桜が咲くたび、女中に髪を結ってもらい、紅を差してもらって、まるで花の姫君のように笑っていたという。

 けれどその面影は、惟道が出会った彼女にはなかった。
 誇り高い華族の娘というより、懸命に一歩ずつ生きてきた女性の姿だった。

 その彼女と、今――。

 庭の奥から、そっと足音がした。


 「……先生?」


 志野子の声だ。

 惟道が振り向くと、彼女が遠慮がちに足を進めていた。
 髪は夜風に少し乱れていたが、それがかえって美しかった。