春は、香りとともに。




  ***
 

 父の出奔は、突然だった。

 前夜まで普通に食事を共にし、家族として同じ屋根の下にいた。
 だが翌朝になると父はいなかった。執事も、使用人たちも、誰もが驚きと困惑を隠せず、やがて家中に広がった不安は、屋敷の崩壊を意味していた。

 残されたのは、多額の借金と、居場所をなくした母。
 社交界では没落一直線だということがまことしやかに語られ、誰も私たちに手を差し伸べなかった。

 だから、結婚を決めた。最初は愛がなくても大丈夫だと一緒に生活していれば情が生まれるはずだと。きっと、友人くらいの関係なら出来るんじゃないかと思っていた……蓋を開ければ、そんな甘いことはなかったのだけど。

 戦争が終わり、新しい憲法になって華族制度、生まれ持った身分がなくなるときいて夫は離縁届にサインを求めて来た時はつらかったけれど。

 それでも志野子は、生きるために着物をたたみ、食器を洗い、裁縫を覚えた。
 戦中に無事に残ったわずかな家財や女学校時代に着ていた着物たちを売り払った。それを使用人たちに給金を渡したとき、はじめて人に「ありがとう」と深く頭を下げられたのを覚えている。

 それから、母は家から逃げるように出て行ってしまった。それからお嬢様だと呼ばれてそれを当たり前だと思い享受して生きてきた自分とは真逆の生活を始めて……強くあらねばと自分を鼓舞して生きてきた。だれかに甘えるなんて贅沢なことだと思っていた。

 けれど。


 「……もう、強がらなくてもいいのかもしれませんね」


 ぽつりと呟いたそのとき、思い出す顔があった。
 惟道――この長屋でともに暮らす、香道家の男。

 最初は、父と同じ“古き世界の人”だと思った。
 けれど違った。惟道は、過去にしがみつかず、誇りを持ちつつも時代を見据えていた。

 彼と過ごした日々は、決して派手ではない。
 けれど、茶を淹れてくれた朝、雨の日に一緒に湯を沸かした日、咄嗟に背を庇ってくれた瞬間――そのすべてが、今の彼女を形作っていた。


 「……わたし、あなたと、未来を見たいです」


 声に出したその言葉が、自分の中の何かを決定的に変えた。