春は、香りとともに。



 千原家の客間は、静けさを纏っていた。
 掛け軸の墨はうっすらと擦れ、襖の縁には時代の跡が浮かんでいる。けれど、その古びた風合いが、志野子にはなぜか心地よかった。

 障子越しに差し込む午後の光。
 香炉から立ち上る煙が、ゆらりと淡くたなびいている。


「この香り……どこかで」


 志野子が眉を寄せると、惟道は香炉を軽く回しながら言った。


「“空蝉”です。……ご記憶には、ないでしょうか」
 

 その名を聞いた瞬間、記憶がぱっと色づいた。


「……あります。最後の稽古の日、私が……はじめて“当てた”香。あのとき……“空蝉”と答えたら、先生が驚いた顔をなさった」

「ええ。あの時のあなたの表情を、私はずっと覚えています。……何か、大切なものに触れたような、そんな顔をしていました」


 惟道の声は、香りのように淡く、けれど心に深く残る。
 志野子は、そっと目を閉じた。


 ――空蝉。
 それは、身を抜け落ちた後の蝉の抜け殻。
 そこに残るのは“形”ではなく、“記憶”だ。