春は、香りとともに。




 ふたりの手が、そっと触れ合う。
 志野子の小さな指に、惟道の指がそっと重なる。


 「怖がらないでください。……何もしません。ただ、こうしていたいだけなんです」

 「……はい」


 そのやさしい声に、志野子は頷いた。
 指先のぬくもりだけで、もう充分に心は震えていた。

 ふと、志野子が小さく呟いた。


 「先生の声、落ち着きます。……まるで、心の奥まで届くような、そんな響きで」

 「……それは、あなたが聞いてくれるからですよ」


 惟道は目を閉じたまま、そっと囁いた。


 「あなたが、わたしに“耳”を貸してくれる。だから、わたしは……言葉を選べるようになったのかもしれません」


 志野子は、その言葉を胸の奥にしまいながら、そっと目を閉じた。

 今夜だけは、誰にも邪魔されない。
 こんなにも、あたたかくて、やさしい時間の中で――

 小さな部屋に、ふたりの寝息が静かに重なる。

 触れているのは、指先だけ。
 けれど、心はそれ以上に深く――つながっていた。


 「おやすみなさい、先生」

 「……おやすみなさい、志野子さん」


 春の夜。窓の外では、ふたたび桜が、静かに舞っていた。