春は、香りとともに。



 翌朝。空は、嘘のように澄んでいた。

 志野子は縁側に座って、差し込む光に目を細めた。
 あんなに降っていた雨が、すっかり空を洗い流したかのようだった。
 
 隣から、柔らかな声がした。惟道だった。


 「今日は……もしよろしければ、外へ出かけてみませんか」

 「え?」

 「最近は、家の中にいることが多かったでしょう? 少し、風を感じるのも悪くないかと」


 志野子は、はっとして惟道を見た。
 その目は、穏やかに微笑んでいて――志野子の胸の奥で、小さく春の芽がふくらんだ。



 向かった先は、長屋からそう遠くない場所にある、小さな神社だった。

 石畳を踏みしめながら、ふたりは並んで歩いた。
 志野子は、外の空気を吸い込むたびに心が軽くなるのを感じる。


 「……こうして外を歩くの、どれくらいぶりでしょう」

 「ご無理はなさらずに。少しでも疲れたら、すぐ戻りましょう」

 「……はい。でも、大丈夫です。なんだか、不思議な気持ちです。ここがこんなに明るい場所だったなんて、知りませんでした」


 神社の境内には、早咲きの桜がぽつぽつと花をつけていた。
 まだ満開には遠いが、その慎ましさが春の訪れを静かに告げていた。