春は、香りとともに。





 布袋のなかから、包み紙に包まれた二つの丸い焼き菓子が現れた。

 「あんこ入りの焼き菓子です。……通りすがりの屋台で、たまたま目に入りまして」


 志野子の目が、ぱっと明るくなった。


 「これ……父がよく、似たようなものを買ってくれたんです。ふわふわの生地に、やさしい甘さのあんこが入っていて……」


 懐かしさが胸に込み上げ、志野子は包みを大切そうに両手で受け取った。


 「まさか先生が……買ってきてくれたなんて」

 「……そう思われるのも、少し寂しいですが」


 惟道は、濡れた髪のまま微かに笑った。
 その姿に、志野子の胸の奥が静かにあたたかくなる。



 茶を入れ、小皿に焼き菓子をのせて、ふたりは室内のちゃぶ台に向かい合って座った。

 雨はまだ続いていたが、外の世界のざわめきは、ここには届かない。


 「どうぞ、冷めないうちに」


 惟道の声に促されて、志野子はそっと、ひとくちかじる。
 ふわっとした生地の中から、ほくほくと炊かれた小豆の餡がとろりと溶けて、口いっぱいに広がった。


 「……おいしいです。優しい味……」

 「それは、何よりです。ここのは美味しいと人気らしいです」


 惟道もひと口。
 静かな沈黙のなか、あたたかな甘さだけが、ふたりの間を満たしていた。


 「……変ですね」


 志野子がぽつりと言った。


 「こうして雨の朝に、焼き菓子を食べながら先生と向かい合っているなんて。
  少し前までは、こんな日常が来るとは思ってもみませんでした」

 「そうですね。……私も、同じです」


 ふたりの間に、短い沈黙。

 惟道がふと、志野子の頬に浮かんだ笑みを見て、小さく息をのんだ。
 そして、そのまま静かに言葉を落とす。