春は、香りとともに。



 朝から降り出した雨は、しとしとと音を立てながら長屋の屋根を叩いていた。

 志野子は、縁側の小さな窓から外を眺めていた。
 灰色の空に、やわらかな薄緑の葉が滲んでいる。


 (……今日も、先生は早くに出かけていかれた)


 惟道が「少し所用で」と言って出ていったのは朝の七時前。
 そのときは傘も持たずに、薄手の羽織だけを引っかけていた。


 (……大丈夫だったかしら)


 気になって仕方がない。

 それに前夜の“告白”の余韻が、どうしても心を落ち着かせてくれなかった。

 時計の針が十一時をまわる頃――


 「……ただいま戻りました」


 玄関から、朝ぶりの懐かしい声が響いた。


 「先生……!」


 志野子は、思わず飛び出すように玄関へ向かう。
 戸を開けると、そこには、傘を持たぬままずぶ濡れになった惟道の姿があった。


 「お、お入りください……! すぐに乾いたものを」

 「いえ、そこまで濡れては……あ、でも……」


 肩先からぽたぽたと水が滴り落ちているのを見て、志野子はすぐさま手ぬぐいを差し出す。


 「まったくもう……どうして傘を持っていかれなかったのですか」

 「……少し歩けば止むと思ったのですが、どうにも見通しが甘かったようです」


 惟道は苦笑しながら、手に下げていた布袋をそっと差し出した。


 「……ですが、せめてもの償いに。志野子さん、お好きではありませんでしたか? これを」