春は、香りとともに。




  ***
 

 縁側の木の床板に、ふたり並んで腰かける。
 風が止んで、庭先の若草が揺れる音だけが聞こえた。


 「先生……惟道さん」


 名前を呼ぶと、彼の指がぴくりと動いた。


 「……わたし、あの人のことを、昔少しだけ、憧れていた時期がありました。でも、いまはもう――」

 「それ以上、聞きたくありません」


 志野子の言葉を遮るように、惟道がゆっくりと声を落とした。


 「……なぜでしょう。あなたの過去すら、いまは嫉妬してしまいそうなのです。おかしいでしょう?」

 自嘲気味に笑った惟道の手が、そっと自分の膝の上に置かれる。
 そして、そのまま――恐る恐る、志野子の手の近くへ、滑らせるように伸びてきた。

 指先が、触れた。
 それだけのことなのに、志野子は全身がびくりと震えた。


 「……あなたの手を、これから何度でも取りたいと願ってしまう自分が、怖いほどです」


 惟道の言葉は、決して甘くはなかった。
 けれど、その静けさの裏にある熱は、誰よりもまっすぐで、まるで灯のようだった。