春は、香りとともに。




  ***
 

 部屋の灯りが、ほのかに揺れていた。
 志野子はそっと膝を進め、惟道の方へ身を向けた。

 惟道は、箱から簪を手に取った。


 「……差しても、いいですか?」


 志野子は少し迷い――そして、そっと首を振った。


 「……あの、もう少しだけ……その……気持ちの準備を……」


 唇が震えていた。

 惟道は、無理に差すことはしなかった。
 ただ、静かに彼女の手に簪を戻した。


 「では、いずれ。……そのときは、あなたの髪にふさわしいように」


 そのやさしさに、志野子は胸がいっぱいになった。
 言葉にならず、けれど、笑みだけがこぼれてしまう。


 その夜。
 志野子は、簪の入った箱を布にくるみ、枕元に置いた。

 桜の花の細工が、灯りに照らされて柔らかく輝く。


 (誕生日に、こんなにあたたかい気持ちになれるなんて)


 彼の指が、すぐそばにあったこと。
 手を取られそうになったこと。
 だけど、取られなかったことも――すべてが、今夜の宝物だった。


 「……今夜の灯りは、ずっと暖かい気がします」


 つぶやいたその声は、静かに夜の帳にとけていった。