春は、香りとともに。





 帰宅後、志野子は静かに台所に立っていた。
 湯を沸かし、米を研ぎ、煮物の味をみる。

 昼の賑やかな空気が、少しずつ静寂に変わってゆく時間。
 かすかな疲労と、胸のあたたかさが入り混じるような、不思議な感覚だった。


 (誕生日だなんて……忘れたふりをしていたのに)

 (でも……こんなに、幸せだった)


 ただ、誰かと並んで歩いて、季節の市をめぐって、笑って。
 それだけで、十分に満たされていた。

 夕食のあと、惟道がふと立ち上がり、ふたり分の湯呑を並べた後――静かに、志野子の前に小さな桐箱を差し出した。


 「……ひとつ、僕からもお渡ししたいものがあります」

 「え?」


 桐箱には、淡い花模様の和紙が巻かれていた。
 志野子がそっとほどき、箱を開けると――そこには、春の桜を模した簪が入っていた。

 透き通るような淡紅色の細工が、繊細な銀細工の枝に結わえられている。


 「綺麗……これ、どうして……?」


 志野子の声が、息のように漏れた。

 惟道は、ほんの少し視線を落とし、やがてまっすぐに彼女の目を見た。


 「きょうは……志野子さんの、お誕生日ですから。何か贈りたいと思っていました」


 その一言で、志野子の喉が詰まった。


 (気づいていたの……?)


 「誰かが祝っているわけではなさそうでしたから……でも、あなたに、何か贈りたかった」


 惟道は、優しく笑った。


 「あなたの髪に似合うと思ったのです。……もし、よろしければ」


 志野子は、箱をそっと抱きしめるようにして、深く頭を下げた。


 「……ありがとうございます。すごく、すごく……うれしいです」


 声が震えた。けれど、涙はこぼさなかった。