春は、香りとともに。





 市からの帰り道。
 空は茜色に染まり、風は昼よりも肌寒くなっていた。

 並んで歩くふたりの影が、長く路地を伸びている。
 ときおり聞こえる鳥の声と、遠くから漂う煮炊きの匂いが、夕餉の支度を思わせる。

 志野子は、道すがら、何度も懐の中の手拭いに触れた。
 けれど、なかなか口が開けない。


 (わたしから、何かを渡すなんて。どう言えばいいの……)


 そんなとき、惟道がふと足を止めた。


「志野子さん、きょうは……ありがとうございました」

 「え?」

 「楽しかったです。……あなたと一緒に歩けて」


 その言葉に、志野子の心が一気に熱を帯びた。
 いましかない!と胸が告げる。


 「あの……! 先生」

 「はい、なんでしょう?」

 「これ……市で見つけて。先生に、と思って」


 そう言って手渡した手拭いは、少しだけ震える指に包まれていた。

 惟道は一瞬、驚いたように目を見開き、それからふわりと微笑んだ。


 「藤の花ですね。……とても、やさしい柄です」

 「はい。春の藤の色が、先生に似合う気がして……」


 志野子の声が、最後は少しかすれた。


 「大切にします。ありがとうございます」


 その言葉が、何よりの返礼になった。