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翌朝、セツは早くから湯を沸かし、志野子の支度を始めた。
少し丈の短い紺の着物、白い半襟。
志野子がかつて着ていた華やかな着物ではないが、清楚で、志野子の新たな日々によく似合っていた。
「今日も香道のご稽古、行かれるのですね?」
「ええ。……習うのではなく、“香を聞く”ために、行くつもり」
「それでよろしゅうございます。香は、聞くもの。音と同じです。それに、千原さまなら安心できますし」
セツの言葉に、志野子はそっと笑みを浮かべた。
惟道の言葉と、セツの言葉が、どこか重なる。
――香りは、形のないもの。
それでも、心に確かに残るもの。
惟道の香道教室は、今では近所の女たちにひそかに人気を集めていた。
家を失った未亡人、戦争から戻った夫に怯える若妻、子を亡くした女。
彼女たちは、香炉の前だけは安心して呼吸ができた。
「香を聞いている間は、わたし、“母”じゃなくなるの」
「おらぁ、香なんて分からんと思ってたけど、……なんか涙が出てきてなぁ」
志野子は、その静かな空間の中で、何度も息を呑んだ。
香が、心をほぐしていく。誰にも言えなかった想いが、ほろりと溶けるように解けていく。
そんな中、惟道がふと、志野子のほうを見た。



