春は、香りとともに。




 「これを、私のために?」

 「はい。……ずっと、何かお返ししたいと思っていて」

 「返すだなんて、志野子さん。あなたはもう、十分すぎるほどのことをしてくださっていますよ」

 「……それでも、何かしたかったんです」


 ぽつりとこぼれたその一言に、惟道の胸が、きゅうっと締めつけられた。


 惟道は、その場で手袋を手に取り、そっとはめてみた。


 「ぴったりですね」

 「よ、よかった……」


 安堵の息をもらす志野子の声が、ほんの少しだけ震えていた。


 「……先生の指、冷たかったから。ときどき、本を読んでいらっしゃる時、赤くなっていて」

 「……そんなところまで、見ていてくださったんですね」


 惟道は自分の掌を見つめた。
 文子が亡くなってから長い間、自分ひとりで生きてきた。だからそんな些細なことを誰かに気づかれることも、気づかれることを望んでいなかった。
 ただ静かに、本と記憶と、かつての家族の幻影に囲まれて暮らしてきた。

 けれど、今自分の“冷たさ”を気にかけて、針を運び、夜な夜な手袋を縫ってくれたひとが、隣にいてくれたことがとてもうれしい。

 胸の奥に、じわりと火を灯した。