春は、香りとともに。




 惟道との再会から数日。

 志野子の心には、まだ波紋が残っていた。

 惟道の声も、あの香道の静謐な空気も、どこか懐かしく、それでいて怖かった。
 あの人に、見透かされるような気がするのだ。
 今の自分が、令嬢から庶民へと落ちぶれた女であることも、過去に逃げたことも、気づかれてしまいそうで。

 ――それでも、もう一度香の世界に触れてみたい。
 それは、まぎれもない本心だった。



「セツ……私、もしあの方から、本当に“妻”として望まれたら、どうすればいいかしら」



 夜、灯りも落としたあとで、蚊帳の向こうからぽつりと漏らした言葉に、セツはしばし沈黙した。

 やがて、静かに、こう答えた。



「私は……お嬢さまが、“誰かの妻になる”ことよりも、“誰かの隣で安心して笑える”ほうを望んでいます」

「……それって、違うの?」

「違うようで、似ていて。似ているようで、まるで別です」


 その返事に、志野子は黙り込んだ。
 蚊帳の中で、白い手を胸に置き、ゆっくりと目を閉じる。

 ――惟道のそばは、不思議と、静かで、安心できた。

 それは恋か、錯覚か、あるいは――希望だったのだろうか。