春が、じわりと町に入り込んでいた。
まだ空気は肌寒いが、草花は少しずつ色づきはじめ、町人たちの足取りも軽やかになってきた。
志野子は、洗濯物を干しながら、ふと縁側に座る惟道を見た。
眼鏡の奥のまなざしは本の頁を追いながらも、どこかやわらかくて――
ここで暮らし始めた当初にはなかった、穏やかな空気が、ふたりの間に流れていた。
「……先生、お茶、いれますね」
「ありがとうございます」
いつもの会話。けれど、どこか温度が違う。
惟道が顔を上げ、湯呑を受け取ったとき、指先がふと、志野子の指に触れた。
「あ……」
志野子が小さく声をもらす。
惟道もまた、気まずそうに目を逸らしかけて――けれど、口元がわずかにほころんだ。
「……失礼。驚かせましたね」
「い、いえ……こちらこそ……」
たったそれだけの触れ合いが、胸の奥でぽっと火を灯した。
その夜、志野子はひとり、手縫いの仕事に没頭していた。
裁縫道具箱の奥から、使い慣れた黒糸を取り出す。
反物の端切れを、丁寧に切り揃えながら――小さな“手袋”の形に仕立てていく。
惟道は、春先でも本を持って長時間縁側にいることがある。
指先が冷えているのを、何度か見かけていた。
(ほんの、気持ちだけ……)
そう自分に言い聞かせながらも、心のどこかで「贈りたい」と願っている。
彼のために“何かを作る”ことが、これほど心を満たしてくれるとは――
志野子の指は、いつになく丁寧に、真っ直ぐ針を進めていた。



