春は、香りとともに。





 「ご存知かと思いますが、わたし……私は、前に、一度だけ、結婚をしていました」


 そう告げると、惟道は何も言わずに、ただ頷いた。


 「華族の令嬢だった時、突然父が出奔しました。それで家を守るために跡継ぎを産むために婿を迎えました。相手は同じ男爵家の御曹司で、次男でした。結婚といえど幸せなんて程遠い……よくある名家同士の結びつきでした」


 声は震えていなかった。
 けれど、それを語る志野子の目の奥には、鈍い痛みがあった。


 「だからです、うまくはいきませんでした。夫は、元々わたしではない別の人に心を寄せていたようで……家のための結婚のために別れたそうです。わたしはただ、家を守るためにそこにいただけで……彼にとっては“面倒な責任”の象徴だったのだと思います」


 惟道は、なおも黙って聞いていた。
 うなずきもせず、ただ一語も口を挟まず。
 その静けさが、志野子にはありがたかった。