春は、香りとともに。




 夜は深まり、部屋は静寂に包まれていた。

 寄り添いながら、ふたりは何も話さなかった。
 けれど、語らずとも、確かな思いが交差していた。

 惟道は、志野子の髪をひと房、そっと指に絡めた。
 その仕草は、あまりに繊細で、触れた方が胸を打たれるほどだった。


 「……先生」

 「はい」

 「この暮らしが、ずっと続いたらいいのにって、思ってしまいました」


 その言葉に、惟道は短く息を呑んだ。
 けれど、次の瞬間、微笑を浮かべて言った。


 「私もです。
  誰かと食卓を囲み、あなたとの暮らしの音を聞きながら、本をめくる。そんな時間が、これほど愛おしいとは……思っていなかった」


 志野子は、そっと目を閉じた。
 その瞼の裏で、もう涙は流れていなかった。