春は、香りとともに。


 薄い障子戸をすり抜けて、長屋にまた今日も風が通る。

 その風は、かつての男爵邸の重厚な玄関や、真鍮の燭台をすり抜けていた風とは違っていた。
 埃と干し魚の匂い、遠くから聞こえる豆腐屋のラッパの音。それらが混じり合い、風はささやかな暮らしの気配を運んでくる。

 志野子はそんな風の中で、ふと微笑む。


「慣れましたね、この音と、香りと、隙間風」

「はい。慣れとは、誇るものです」


 返すのは、いつもそばにいる――女中のセツだった。