春は、香りとともに。



 ふたりは、そのまま黙って星空を見上げた。

 言葉にしなくても、わかることがある。
 触れなくても、心が寄り添っていると感じられる夜だった。

 やがて志野子が、ふと思い出したように口を開いた。


「……先生、あの、もし……また寒い日が来たら、わたし、何か縫ってもいいですか?」

「何か?」

「はい。……たとえば、先生の手が冷たくならないように、手袋とか。
 それとも、お弁当袋でも……」


 惟道は、くすっと笑った。
 

「それなら、私は君に“本のしおり”を贈りますよ。
 君が読む物語が、途中で迷子にならないように」
 

 志野子は思わず笑った。
 お互いに“役に立つ”ことを、まるで贈り合うように口にできる。
 そんなやりとりが、たまらなく愛おしかった。


「……じゃあ、お互いの“生活”にひとつずつ、彩りを加えていくということで」

 「ええ。そうしましょう」


 手はまだ触れ合わないけれど。
 その代わりに、“言葉”と“時間”を重ねるふたりの姿が、月明かりの下に浮かんでいた。