春は、香りとともに。




 「この着物の裾、もう少し上げられるかしら」
 「うちの子の入学式用の羽織を――」
 

 志野子は、そのひとつひとつに心を込めて針を動かしていた。
 もともと得意だった針子の技。
 それが、ようやく“生活の糧”になりつつあるのが嬉しかった。

 そこへ、そっと湯呑が差し出された。
 
 「お疲れさまです」
 

 惟道だった。
 志野子は驚いて顔を上げ、微笑んだ。


 「ありがとうございます。……先生は、お勉強の合間ですか?」

 「はい。君が黙々と針を進めている音が、妙に心地よくて」


 志野子は、頬を少し赤くした。
 そんなふうに言われるなんて、予想していなかった。

 「……そんな、私の縫う音なんて、雑音みたいなものですのに」

 「とんでもない。とても整っていて、落ち着きますよ。まるで、“生活のリズム”のように」


 心臓が、きゅう、と音を立てた気がした。
 惟道の言葉は、いつも飾らないのに、なぜか胸の奥を撫でていく。


 日が傾き始めるころ、志野子は出来上がった袴を包み、届けに出た。
 歩きながら、ふと気づく。

 (町が……こんなに賑やかだったなんて)


 それはきっと、自分の目線が変わったからだ。
 昔のように、男爵令嬢として遠巻きにされるのではなく、
 今はお針子の志野子さんとして、町の中に立っている。