春は、香りとともに。



 早春の風はまだ冷たく、吐く息に白さが残っていた。
 けれど、志野子の心の内には、不思議とあたたかいものが広がっていた。


 ――先生の手のぬくもりが、胸の奥でじんわりと灯っている。


 夜明けとともに目覚める日々にも、もう慣れてきた。
 布団の端を丁寧に整え、顔を洗い、台所に立って朝餉を作る。
 何も特別ではない朝のはずなのに、ふと笑みがこぼれてしまう。


「おはようございます、志野子さん」


 襖の向こうから聞こえる声。
 その低く、穏やかな響きに胸が跳ねた。
 

 「おはようございます、先生」


 振り返ると、惟道が湯気の立つ台所を見て、わずかに目を細めた。


 「良い香りですね。今日は……粕汁でしょうか?」

 「はい。少し冷える朝ですし、温まるものをと思って」

 そう言って椀を差し出すと、惟道はいつもより丁寧に受け取った。
 指先が触れる瞬間、志野子は思わず呼吸を浅くする。

 (この距離に、まだ慣れなくて……)

 でも、それが嫌ではない。
 胸の奥で、ぽっと花が咲くような、くすぐったい気持ちになるのだ。



 昼下がり。
 志野子は縁側で縫い物をしていた。

 今、町内では「志野子さんの針仕事」がちょっとした噂になっていた。
 近所の女将や奥方が、こぞって依頼を持ち込んでくるのだ。