春は、香りとともに。




 沈黙。
 その静けさを最初に破ったのは、惟道だった。


「昨日、君が言ってくれた言葉……私は、あれに救われました」


 志野子は視線を落とす。
 足元の畳の目を、ただ黙って見つめた。


「私は、文子と出会って……そして、失って、すべてが止まってしまったように感じていた。
でも、君と出会って……また時間が動き始めたんです」


 風の音とともに、惟道の声が心の奥に落ちてくる。


「……でも、それは“君を文子の代わり”に見ていたからじゃない。
君とだから、もう一度、生きてみようと思えたんです」


 志野子のまつ毛が震える。


 「君の声に、手に、眼差しに、私は……何度も助けられてきました」


 惟道の声は、まるで囁くように、でも決して逃げないように、まっすぐだった。


 「これは、“過去”を昇華するための感情じゃない。
……君という“今”に触れて、芽生えたものです」


 志野子は、そっと顔を上げた。
 惟道の横顔が夕日を受けて淡く照らされていた。

 その表情に、悲しみの影はなかった。
 ただ、静かで、まっすぐだった。