春は、香りとともに。




 その事実が、どうしようもないほど嬉しかった。
 けれど、その分だけ、怖さもあった。


 (この気持ちを、もし裏切られたら――)


 胸の奥に、小さな震えが走る。
 けれど、ふと思い出す。

 あの夜。
 惟道の手が、熱を持つ彼女の額にそっと触れたとき――

 名前を呼ばれたときの、あの声のやさしさ。
 

 (……信じてみたい。先生の言葉を)


 そう思う自分が、確かにいる。
 はじめて、誰かを“好き”になるという感情が、自分の中で育っているのがわかる。

 縫い物をする手が、今夜はなんだかうまく動かない。
 心ここにあらずとは、きっとこういう状態を言うのだろう。

 (……はしたないわ。わたし)

 そう自嘲気味に笑いながらも、頬がほんのり熱を持っていることに、自分で気づいてしまう。


 夜、風が涼しくなったころ。
 ふたりは自然と、縁側に並んで腰を下ろしていた。

 惟道は本を片手に、志野子は糸巻きを手にしながら。
 けれど、どちらも内容にはさっぱり集中していなかった。

 静かに、夜の虫の声が耳を満たす。
 庭先では、風に揺れる花の葉が音もなく揺れている。

 ――あと、数センチ。
 その距離に、お互いの手があった。

 指が触れそうで、触れない。
 けれど、そのわずかな間隔が、ふたりの心をかえって強くつないでいた。


 「……ねえ、先生」


 志野子が、ほんの少しだけ身体を傾けて声をかける。


 「はい」

 「“生きてみようと思えた”って……おっしゃっていましたよね」

 「……ええ」

 「それって、たとえば……どんな未来のことでしょうか」
 

 問いかける声は震えていた。
 けれど、それは決して不安ではなく、むしろ一歩、ふたりの関係を進めたいと願う気持ちだった。

 惟道は、本を閉じて視線を彼女に向けた。