春は、香りとともに。




 (この人の傍で、もう一度、生きてみたい)


 そんな思いが、胸の内に静かに立ち上ってくる。


 「志野子さん……」


 囁いた声に、彼女のまつ毛がわずかに揺れた。
 しかし目を覚ますことはなかった。

 惟道は躊躇いながらも、彼女の手にそっと、自分の手を重ねた。

 あたたかく、細く、でも芯のある手だった。


 「……過去は過去だ。君を、その影に重ねたりはしない。……これは、君のために置く、今の手だ」


 そう口の中でつぶやくと、惟道は静かにその手を離した。

 明日になったら、きちんと話そう。
 文子のことも、志野子への気持ちも、言葉で伝えよう。

 そう心に決めて、その夜を閉じた。