春は、香りとともに。



 【惟道side:もう戻らない扉の向こうに】
 


 夜更け。
 志野子が下げた茶碗を片づけ、部屋が再び静けさに包まれるころ――

 惟道は一人、襖越しに外の暗がりを見ていた。

 過去のことを、語るつもりはなかった。
 語ったところで何も変わらないと思っていた。

 けれど、彼女が涙をこらえながら『先生の過去も大事にしたい』と言ってくれた瞬間――
 心の底で、何かがやわらかく崩れた。


 (文子……)


 心の中で静かに、亡き妻の名を呼ぶ。
 白い襟元と、凛としたまなざし。
 自分にとって“誇り”であり“責任”だった彼女。

 ――けれど、あの日。