春は、香りとともに。




  ***


 翌日。志野子は、古びた桐の引き出しから一枚の和紙を取り出した。

 香道教室で最後に惟道からもらった“香のしおり”だった。百合の花の形をした香型の写しが、かすかに墨で描かれていた。


「……セツ。今日、行きましょう」

「どちらへ?」

「香道家へ。――惟道さまに、お会いします」


 セツは驚いたように目を見張ったが、すぐにうなずいた。


「……お嬢さま。きっと、その方は……今のあなたを見てくれる方です」

「そうかしら」

「だって。香りというのは、過去じゃありません。いま、この瞬間に香っているものです」


 セツのその言葉が、妙に心に染みた。


 そして、その午後。

 志野子は、かつて香道を習った屋敷の門の前に立っていた。
 表札は変わらず、“千原”の名が掲げられていた。

 あの頃よりも少し、木戸がくたびれている。
 だが、その奥に満ちる空気は、相変わらず静かだった。