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翌日。志野子は、古びた桐の引き出しから一枚の和紙を取り出した。
香道教室で最後に惟道からもらった“香のしおり”だった。百合の花の形をした香型の写しが、かすかに墨で描かれていた。
「……セツ。今日、行きましょう」
「どちらへ?」
「香道家へ。――惟道さまに、お会いします」
セツは驚いたように目を見張ったが、すぐにうなずいた。
「……お嬢さま。きっと、その方は……今のあなたを見てくれる方です」
「そうかしら」
「だって。香りというのは、過去じゃありません。いま、この瞬間に香っているものです」
セツのその言葉が、妙に心に染みた。
そして、その午後。
志野子は、かつて香道を習った屋敷の門の前に立っていた。
表札は変わらず、“千原”の名が掲げられていた。
あの頃よりも少し、木戸がくたびれている。
だが、その奥に満ちる空気は、相変わらず静かだった。



