春は、香りとともに。



 女中のセツが襖を開け放つと、朝の風がすうっと、薄い障子の間をすり抜けて吹き抜けていく。

 その風は、かつて男爵家の広間を飾っていたベルベットのカーテンの香りでも、銀器に磨かれたティーセットの匂いでもなかった。
 わずかに埃の匂いのする、素朴で、どこか懐かしい風だった。


「志野さま、お目覚めになってくださいませ。お湯、沸かしてございます」


 セツの声に、布団の中でまどろんでいた志野子は、ゆっくりと目を開けた。
 薄い布団と、軋む畳の上の古びた寝台。かつて絹のシーツと羽毛の掛布団で眠っていた日々は、まるで別の人間の記憶のようだった。


「……もう“さま”なんて、要らなくてよ」


 小さな声で、志野子は笑った。


「だって、ここは男爵邸じゃありませんもの。風の通る、ただの……長屋ですわ。それにただの志野子です」

「いえ、お嬢さまはお嬢さまです。それに、お名前が“志野”でなくて、何と呼べばよろしいのです」

「セツ、あなた……融通が利かないんだから」

 そう言いながら、志野子は起き上がり、かすかに肩を震わせた。
 笑ったのか、泣いたのか、自分でも分からなかった。