人間革命の旅はここから始まった。

 ぼくと正美ちゃんが付き合い始めた頃、高山君の折伏が始まった。 居室も同じだから彼は毎日ぼくに話しかけてきた。
9月の大阪は暑くてね、夜も蒸し暑くて嫌になるくらいだ。 そこで彼はいつもぼくに冷コーを飲ませてくれた。
 そうしながら仏法の話、公明党のこと、池田名誉会長のことを聞かされる。 特に聞く気は無いのだけどアイスコーヒーのためにはしょうがない。
高山君は他のクラスメートよりも誰よりもぼくの足のことを気遣ってくれていた。 大変だと思えば負ぶってくれたりしてね。
 そんな彼の話を聞かないわけにもいかない。 まあ取り敢えず聞いておこうかって感じ。
でもさ、もともと信心する気なんて無いし2年間の付き合いだからやり過ごせば何とかなるだろう。
そう思っていた。 ところが、、、。

 足のほうはどんどん痛みがひどくなっていく。 階段すら楽に登れなくなってきた。
そんな中でも正美ちゃんとの付き合いは続いている。 なかなかいい感じ。
 高山君の折伏が始まってから7軒目の整形外科に飛び込んだんだ。 先生は不思議な顔をした。
「レントゲンには何も映ってないんだよなあ。」 それで初めて血液検査をしてくれた。
 結果は悪性筋炎だった。 最悪だった。
(病名が分かっただけでもいいことにしよう。) ぼくはそう思ったよ。
 そんな頃だったね。 ぼくが第二回全国男子部幹部会に参加したのは。 緊張した。
それより何より畳敷きのむさ苦しい部屋で男たちが必死になって拝んでいるのが気になった。
創価学会西成文化会館。 ここでぼくは初めて池田名誉会長の声を聴いた。
 なんでも1989年の8月24日から始まった同時中継らしい。 それまでは音声だけの中継だったとか。
過去を知る人の話では「中に入れない人たちは会館の周りに集まって漏れてくる声尾を壁越しに聞いたんだ。」とか。
 それから30年後には双方向で通信できるようになっているのだからすごいもんだよね。

 6時半に集合を完了した男子部の人たちは勤行を始める。 そうやって会合の始まるのを待つんだそうで。
やがて会合が始まるとものすごい拍手で池田名誉会長を迎える。 モニターの向こう側から声が聞こえる。
 (これが池田名誉会長か。) ボーっとした頭でぼくは話を聞いている。
 ぼんやりした頭で話を聞いている。 さっぱり意味が分からないのに。
それでもそんなぼくの耳に、、、。

 「受くるは易く保つは難し。 さる間 成仏は保つに有り。」
名誉会長が御書の一説を引用された時、ぼくの心に何かが響いた。
 (この人だ。 この人を俺はずっと探していたんだ。 やっと再会できたんだ。) 不思議だった。
そこからぼくは創価学会に飛び込んでいくのである。 でも最初は名誉会長に会えただけで満足してしまったから大変。
 その後も高山君の話は続いたが信心するとかしないとかいうことはどうでもよくなっていた。
兎にも角にもむさ苦しいくらいに熱い部屋でアイスコーヒーを飲めればそれで良かったんだ。
 何でそうなったのか、、、。 実は大阪府盲のこの寄宿舎 数年前に泥棒に入られたらしい。
それで午後10時を過ぎると防犯センサーのスイッチが入る。 迂闊に窓を開けると宿直室のブザーがけたたましく鳴るんだよ。
窓が開けられないから熱気がこもるわけ。 だからアイスコーヒーが神様に思えてくるんだよな。
 そんな10月2日、この日は寮祭が行われた。 30日の予定だったが通過した台風の影響で延期されていたのだ。
 ぼくは歌合戦のバンドに参加していた。 ベースを担当してね。
その歌合戦が終わった後、時間を作って正美ちゃんと会った。 この日、正美ちゃんは意を決したのか、ぼくに飛び込んできた。
いよいよ付き合うことを本気で決意するように仕掛けてきたのかもしれないな。 ぼくは浮足立っていた。
 ところがところが足のほうはさらにひどくなってくる。 長く立っていられない。
音楽科は立って行う授業も有るから大変だ。 「立てないんだったら声楽はやれないぞ。」
担当の鹿村先生はそう言って厳しい顔をする。 項垂れるしかない。
 そんな10月8日の夜だった。 運命の夜が来たのは。
足の痛みは耐えきれなくなってぼくは居室の床を転げ回っていた。 「騙されたと思ってやってみろ。 叶わないことは無いんだから。」
 不意に高山君が数珠を出しながらそう言ったことを思い出した。 それでぼくは初めて数珠を手に掛けた。

 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経、、、。

 深夜11時。 みんなが寝てしまった居室の片隅で静かに静かに題目を唱え始める。 無我夢中だった。
何時間か過ぎた頃には一心不乱に題目を唱えていた。 そして朝が来た。
 立ち上がってみると足が軽くなっている。 歩いてみて驚いた。
昨夜まで間違いなく自分を苦しめていた足の痛みが無くなっている。 夢かと思った。
そしてぼくは決意するんだ。 (この宗教は本物だ。 やるしかない。)とね。
 その日は秋の遠足の日だった。 ぼくらは奈良県へ出掛けた。
その道中も何の苦痛も無く乗り切ったのである。 驚いた。
 その日の夜、男子部長だという山川敏明が寄宿舎に電話を掛けてくれた。 ぼくは正美ちゃんとの交際について相談したんだ。
「そりゃあ、君から素直に勇気を持って言うしか無いよ。 周りでどうこう出来る問題じゃない。」 そうだよなって思った。
 その電話を山川が切ろうとした時、ぼくは思い切って懇願した。 「頼むから御本尊をください。」と。
「あんた、本気で言うてるのか? 大変なことなんやで。」 「分かってます。 覚悟してます。 大丈夫です。」
 何を分かっていたのかはぼくにも分からない。 だけど一つの確信だけが揺り動かしていたのは確かである。
俗に言う〈初信の功徳〉を戴いていたこと。 それだけは確かである。
だからこそ「やるしかない。」ってぼくは決意したんだ。
 翌日、ぼくと山川は支部長 徳山忠彦の家を訪ねた。 一人目の面接だ。
何を話したかは忘れてしまったが近日中に御受会を受けることで話はまとまった。 ここからいよいよ学会員となるのである。
 10月14日、日曜日はすごく天気のいい日だった。 この日は山川と支部長の徳山、そして地区部長の的場孝之の3人で日蓮正宗のm寺に向かった。
ここでいよいよ御本尊を戴くのである。 その当時は寺で御本尊を戴いていたのである。
 その前に最後の面接が待っていた。 住吉区指導長 栗山隆の面接である。
「私はね、見えない人に会うと緊張するんだよ。 見透かされてるんじゃないかと思ってね。」 そんなことを話しながら彼の面接は続いた。
 「学会には三つの禁足が在ります。 これは絶対に守ってください。」

 1. 金銭貸借の禁止。
 2. 組織利用の禁止。
 3. 不純異性交流の禁止。

 つまりは金の貸し借りと学会員目当ての営業と不倫の禁止である。 当然だろうな。
金銭貸借をして身を滅ぼした人も居る。 組織を利用して責められた人も居る。
不倫などは言語道断である。 どれだけの人に影響を与えるか分からない。
 「君は何処の出身ですか?」 一応の面接が終わって指導長はぼくに聞いた。
「筑豊です。」 「何だって? 筑豊の何処だい?」
「飯塚です。」 「信じられん。 私は田川だよ。」
「おやまあ、指導長は田川ですか。 私は直方ですよ。」 「不思議だなあ。 筑豊生まれの3人が大阪で会うなんて、、、。」
こういう出会いを仏縁というのだろうか? ぼくらは互いに再開したような気分になったものだ。
 「これからどんなことが待ち受けるか分からんがしっかり信心するんだよ。」 そう励まされてぼくらは帝塚山に在るm寺に向かったのだ。
そこは例に漏れなく鉄筋2階建ての寺であった。 初めて足を踏み入れた寺であった。
 ところが何か変な空気を感じる。 玄関を入ったとたんに足元から冷たい空気が吹き上げてくるのだ。
クーラーが入っているわけでもない。 窓が開いているわけでもない。
それなのに足元から冷たい空気が立ち上ってくる。 (何か変な寺だな。)
 不審な思いを抱えたまま、ぼくらは2階へ上がった。 そこには檀徒の面々も集まっていた。
やがて住職を中心に読経 唱題が行われ、住職がぼくらのほうを向いた。
板曼荼羅を両手で持ち、ぼくらの傍にやってきた。 冷笑を浮かべている。
 「ご入信おめでとうございます。 どうかこれからは広宣流布に励まれることをお祈りいたします。」
そう言って新入会の人たちの頭に板曼荼羅を載せる。 その時にニヤッと笑っているのをぼくは感じた。
(こいつ、信用できないやつだな。 何かやらかすぞ。) 直観は当たった。
 1990年12月27日、日蓮正宗 宗門は創価学会に対して池田大作名誉会長の追放を宣告したのだった。
俗に言われる第二次宗門問題が勃発したのだった。 それに応ずるようにこの住職も反旗を翻したのである。
 宗門問題はその後に様々な問題と影響を残していった。