人間革命の旅はここから始まった。

 鍼灸師となったぼくは1990年4月に大阪へ行った。 夢がやっと叶ったんだ。
でもその頃のぼくは左足に妙な爆弾を抱えていた。 整形外科に行っても減員すら分からなかった。
 股関節を中心に激痛が走り、立つも歩くも痛くてどうしようもない。 そんな状態で大阪府立盲学校音楽科を目指したのだ。
音楽の勉強をするのは夢だった。 出来れば高校を卒業してすぐに来たかった。
 その鍼灸の勉強をしている頃から左足の激痛は始まっていた。 誰が触っても分かるくらいに腫れ上がっていて熱も有る。
でも整形外科では「腰痛だ。」 「坐骨神経痛だ。」と診断されてシップや鎮痛剤ばかり出される。
鎮痛剤を飲んでもまず効果は無かった。 だんだんとひどくなっていくだけだった。
 音楽課では声楽のように立って授業を受けることも有る。 しかしだんだんと立つのもつらくなってくる。
「辞めて帰ったほうがいいんじゃないか?」 そうまで言われるくらいにひどかった。

 ここ音楽課の生徒は7人。 小さな小さな課だった。
そこでそれぞれに違うカリキュラムが組まれていてみんなは違う時間割で動いていた。
同じ物といえば体育、合奏、合唱、ホームルームくらいかな。 国語は3年生の女の子と一緒だった。
 そうやって2年間の学生生活が始まったんだ。 初めてのことばかりで緊張しまくった。
しかも7人は育ちも出身もみんなバラバラで、、、。 もちろん方言までバラバラだった。
 岩手から富山から愛知から栃木から、そして大阪から福岡から集まった7人だった。 教室では毎日方言が飛び交うんだ。
海外旅行に出たような気分だったなあ。

 でも本当はもう一人クラスメートが居た。 その子は入院中だった。
だからぼくはその女の子には会っていないんだ。 会っていたら一緒にエレクトーンを弾いていた。
 音楽課に異変を感じたのは6月だった。 ぼくは妙な気配を感じた。
エレクトーンが置いてある邦楽教室に入ると人の気配がする。 居ないはずなのに、、、。
 (誰だろう?) いつもここで寝ている高山君かな?
でも彼は居なかった。 それでは?
 不思議に思ってエレクトーンに近付いていく。 気配がますます強くなってきた。
それでピンときた。 「美紀ちゃんか。 遊びに来たんだね?」
気配はずっとそこから動かない。 ずっとエレクトーンを凝視しているような雰囲気だ。
 吉村美紀。 本課音楽課3年生。
実は重病で入院していた美紀が霊山へ帰ったのはその年の8月末だった。 つまりぼくは彼女の生霊を感じていたことになる。
 それを聞いた高山君も驚いた。 「誰か居るなとは思ってたんだけど美紀ちゃんだったのか。」
彼も美紀とは仲良しだったからすごく残念そうだ。 気持ちはよく分かる。
こうして毎日美紀が居る部屋でエレクトーンを弾くことになったわけね。

 音楽科の授業はどれもこれも新鮮で馴染みが薄くてまるで初学の子供みたい。 それまでピアノなんて本気で触ったことも無いから。
幼稚園に通っていた頃、確かにヤマハのオルガン教室にも通っていたから鍵盤には馴染みが有ったけど、、、。
 それも有って小学生の頃に住んでいたアパートにはオルガンが有った。 でも本気で弾いたことは無い。
「隣に病気のおばあちゃんが居るんだから音を出すな。」って母さんに言われていたから。
じゃあ何のために買ってくれたんだろう? 新品だったのにな。
 ピアノの前に座るのも初めてなら点字の楽譜を読むのも初めて。 珍紛漢紛どころの騒ぎじゃない。
宇宙人のメールでも読んでいるみたいな感じ。 だから授業はほとんど進まない。
 そのために自習時間が設けられているのに最初の年はそのことにすら気付かなかった。 お粗末すぎるよね。
おまけに先生たちには「満腹な猿は芸を覚えない。」とまで言われてしまってね。 その中で必死に食らいつくしかなかった。
 満腹な猿、、、つまりは既にやることが決まっている人のこと。 ぼくは免許を持っているから「これがダメでもマッサージをやれば食っていける。」って思われていたんだね。
「お前が高卒で来るんならもっと良かったのになあ。」 そうまで言われたよ。 悔しかった。
 そんな状態で1学期が終わったんだ。 その年は〈花と緑の博覧会〉の年だった。
母さんは妹を連れて迎えに来る傍ら、3人で花博を見に行ったもんだ。 炎天下だった。
 その頃の母さんたちは河川敷に作られたプレハブに住んでいた。 何とも言えない時代だった。
なぜそうなったんだろう? 減員は8年前に遡る。
 1983年8月、ぼくが中学3年の時、母さんは離婚した。 そして実家へ転がり込んだ。
ところが母さんを良く思っていなかった祖母は早く出ていくように攻め立てたんだ。
 「ここは私の家だ。 あんたたちの家じゃないんだから早く出ていきなさい。」 それで母さんはバイト先の2階に移ることを決断した。
ところがしばらくするとそこにも住めなくなってしまった。 それで知り合いが物置に使っていた家に移り住んだ。
 やや時間が経ってその周辺が再開発に引っ掛かり立ち退きを余儀なくされると遠賀川の河川敷 橋の下にプレハブ住宅を作ってもらったってわけ。
その頃にぼくは鍼灸師の勉強をしていたんだ。 必死だった。
 「遊びに行くくらいなら資格を取ってからにしなさい!」 母さんの苛立つ気持ちも分からないではなかったから。
父さんも会えなくなる前に言っていた。 「お前は一人前の按摩さんになるんだぞ。」
それから40年が経った今、やっと父さんの願いも叶えられた気がする。

 さてさて8月ももうすぐ終わり。 大阪へ帰る日も近くなってきた頃のことだった。
ぼくはいつものように狭い部屋の中で寝転がっていた。 蒸し暑い昼下がりだった。
 誰かと一緒に歩いている。 誰だかよく分からない。
 しばらく歩いていると急にすごい力で引っ張られるのを感じた。 ぼくは恐怖を感じた。
そして思わず叫んだんだ。 「美紀ちゃん 辞めてくれ! 俺にはまだまだやることがたくさん有るんだ!」
 目を覚ますと狭い部屋の中をぼくは転げ回っていた。 (何だったんだろう?)
でも確かに気付いていた。 美紀が死んだことに。
 9月になり二学期が始まった。 その時、みんなは美紀が死んだことを知らされたんだ。
でもね、それから半年ほど美紀はぼくの傍に居た。 何を見ていたかは分からない。

 二学期が始まってしばらく経った頃、ぼくは一人の女の子と出会った。 それが杉村正美ちゃん。
実は彼女も学会員だった。 不思議な出会いだったんだね。
 授業を終えて昇降口から寄宿舎へ向かっている時、ぼくの声に気付いた正美ちゃんは声を掛けてきた。 それでぼくらは付き合い始めたんだ。
その1年前、ペンフレンドから彼女のことは紹介されていた。 その時にもぼくは可愛いと感じていたんだ。
でもね、ぼくが創価学会に入会したら彼女は機嫌を悪くしてぼくとは会わなくなった。 不思議だなと思った。
 その頃、ぼくの足は何をやってもダメな状態で困り果てていた。 それを見て高山君が仏法の話を切り出したんだ。
揉んでもダメ、鍼を刺してもダメ、痛み止めも効かないしシップも気休めにすらならない。 どん底の状態だ。
 担任だった中山先生は心配に心配して大阪大学の医学部を受信するように勧めてくれた。 それで受診したまではいいけれど、それでも減員すら分からなかった。
絶望が絶望を呼ぶ。 底無し沼に引きずり込まれていくような感じだ。 足掻いても引っかかる物すら無い。
 そんな時に高山君がぼくに数珠を渡したんだ。 「騙されたと思って題目を唱えてみるんだ。」
半信半疑の状態だ。 すぐに唱えたいとは思わなかった。