創価学会第二代会長となる戸田城聖先生が刑務所を出たのは7月3日の午後だった。
治安維持法違反 不敬罪での収監だった。 初代会長 牧口恒三郎先生はこの門を死にて出られたのである。
当時、昭和20年7月、日本は敗戦間近で満身創痍の状態だった。 軍装も尽き果てていた。
全国の各都市は遠慮の無い空襲に晒され続けて廃墟となろうとしている。 日本政府は中立ロシアの救いの手を絶たれて達磨のような状態になっていた。
満州事変以後、優勢だった戦況も真珠湾攻撃が引き金となって米軍が参加したことで劣勢に変わってしまい、気付いたら手も足も出せなくなっていたのだ。
戸田城聖先生は東京の焼け野原を見ながら呟いた。 「馬鹿げたことを。 いつまでやっているんだ。」
もちろん、先手を打って戦争を終わらせることだって出来たはず。 ところが軍部はそのチャンスを逃してしまった。
そして追い詰められて降伏寸前の状態になってしまったのだ。 国は傷付き国民は飢えていた。
そこへポツダム宣言を出されてしまった。 これでは降伏しないわけにはいかない。
つまりは欧米に先手を打たれたわけだ。 諦めが悪いと言えばこれ以上のことも無いだろう。
その後、戸田先生は壊滅してしまった創価教育学会の再建に奔走する。 そこで彼は考えた。
「この仏法は教育界だけの物ではない。 あらゆる世界に広がるべき正法である。 であるならば創価学会と改名すべきではないのか?」
ここから創価学会の歴史が始まることになる。 昭和20年代のことだ。
ぼくが生まれる20年前のことだ。 この頃、戸田先生は第二代会長に推挙されようとしていた。
もちろん、それまでの道程は小説に有る通りで前途多難どころではない。 商売も行き詰まり信用組合は取り付け騒ぎが起きそうな状況となり、、、。
大蔵省からは業務停止命令を受け、不穏な動きが散見され、、、。
その中を潜り抜けての会長就任だった。 それからの7年はアッと驚くような展開を見せていく。
昭和33年4月2日、戸田先生は全ての使命を果たしぬいて霊山へ帰られたのである。 ぼくが生まれる11年前のことだ。
この小説に出会ったのは1991年、大阪で創価学会に入会した時だった。
左足に原因不明の爆弾を抱えていたぼくは友人に仏法の話を聞いて入会を決意した。
もちろん、最初からすんなりと受け入れたわけではない。 何とかやり過ごして逃げようと思っていた。
「あなたの左足は宿業が積もりに積もって病気になったんです。 宿業を切らなければあなたは死にますよ。」
危機迫る声で友人は迫ってきた。 (誰がお前の言うことなんか信用するかってんだ。 俺はやらねえよ。)
一か月逃げ続けたがとうとう我慢できなくなって入会を決意したんだよ。 10月9日の朝だった。
前日8日は兎にも角にも痛みがひどくて寝るに寝れない状態だった。 そこで数珠を渡されたことを思い出した。
(こんなのを渡されたって邪魔になるだけなんだけどな。) そうは思ったが「騙されたと思って題目を唱えてみろ。」という友人の言葉を思い出して手に掛けた。
自国は午後11時。 寄宿舎の居室の中だ。 周りのみんなは夢の中。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、、、。】 擦れたような声で静かに題目を唱える。
最初は様々な思いが駆け巡った。 その頃、付き合っていた女の子のこともね。
ところが次第に夢中になりやがて無意識になって題目を唱え続けた。
「時刻は午前7時になりました。 nhkのニュースを伝える声が聞こえる。 我に返った時には朝になっていたのだ。
「朝か、、、。」 そう思って立ち上がった時ぼくは驚いた。
つい夕べまで確かに痛みが激しくて置き場所が無かった左足が静まっている。 何歩歩いても痛みが出てこない。
立っているだけでも苦痛はひどかったのに何時間でも立っていられそうだ。
そのことを友人に話すと「すげえなあ。 良かったやん。」って喜んでくれた。 それでぼくは決意したんだ。
「この宗教は本物だ。 やるしかない。」ってね。
そんなぼくの体験も併せてこのエッセーを書いていきたいと思う。
最初に書いておきたい。 自分がこうだったからといって皆さんに「これをやれ。」とは言わないし言えない。
また宗教を勧めることが目的でもないし自分の体験を自慢するために書いていくわけでもない。
「こういう人も居たんだな。」って思ってくれればいいと思う。
では始めましょうか。
治安維持法違反 不敬罪での収監だった。 初代会長 牧口恒三郎先生はこの門を死にて出られたのである。
当時、昭和20年7月、日本は敗戦間近で満身創痍の状態だった。 軍装も尽き果てていた。
全国の各都市は遠慮の無い空襲に晒され続けて廃墟となろうとしている。 日本政府は中立ロシアの救いの手を絶たれて達磨のような状態になっていた。
満州事変以後、優勢だった戦況も真珠湾攻撃が引き金となって米軍が参加したことで劣勢に変わってしまい、気付いたら手も足も出せなくなっていたのだ。
戸田城聖先生は東京の焼け野原を見ながら呟いた。 「馬鹿げたことを。 いつまでやっているんだ。」
もちろん、先手を打って戦争を終わらせることだって出来たはず。 ところが軍部はそのチャンスを逃してしまった。
そして追い詰められて降伏寸前の状態になってしまったのだ。 国は傷付き国民は飢えていた。
そこへポツダム宣言を出されてしまった。 これでは降伏しないわけにはいかない。
つまりは欧米に先手を打たれたわけだ。 諦めが悪いと言えばこれ以上のことも無いだろう。
その後、戸田先生は壊滅してしまった創価教育学会の再建に奔走する。 そこで彼は考えた。
「この仏法は教育界だけの物ではない。 あらゆる世界に広がるべき正法である。 であるならば創価学会と改名すべきではないのか?」
ここから創価学会の歴史が始まることになる。 昭和20年代のことだ。
ぼくが生まれる20年前のことだ。 この頃、戸田先生は第二代会長に推挙されようとしていた。
もちろん、それまでの道程は小説に有る通りで前途多難どころではない。 商売も行き詰まり信用組合は取り付け騒ぎが起きそうな状況となり、、、。
大蔵省からは業務停止命令を受け、不穏な動きが散見され、、、。
その中を潜り抜けての会長就任だった。 それからの7年はアッと驚くような展開を見せていく。
昭和33年4月2日、戸田先生は全ての使命を果たしぬいて霊山へ帰られたのである。 ぼくが生まれる11年前のことだ。
この小説に出会ったのは1991年、大阪で創価学会に入会した時だった。
左足に原因不明の爆弾を抱えていたぼくは友人に仏法の話を聞いて入会を決意した。
もちろん、最初からすんなりと受け入れたわけではない。 何とかやり過ごして逃げようと思っていた。
「あなたの左足は宿業が積もりに積もって病気になったんです。 宿業を切らなければあなたは死にますよ。」
危機迫る声で友人は迫ってきた。 (誰がお前の言うことなんか信用するかってんだ。 俺はやらねえよ。)
一か月逃げ続けたがとうとう我慢できなくなって入会を決意したんだよ。 10月9日の朝だった。
前日8日は兎にも角にも痛みがひどくて寝るに寝れない状態だった。 そこで数珠を渡されたことを思い出した。
(こんなのを渡されたって邪魔になるだけなんだけどな。) そうは思ったが「騙されたと思って題目を唱えてみろ。」という友人の言葉を思い出して手に掛けた。
自国は午後11時。 寄宿舎の居室の中だ。 周りのみんなは夢の中。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、、、。】 擦れたような声で静かに題目を唱える。
最初は様々な思いが駆け巡った。 その頃、付き合っていた女の子のこともね。
ところが次第に夢中になりやがて無意識になって題目を唱え続けた。
「時刻は午前7時になりました。 nhkのニュースを伝える声が聞こえる。 我に返った時には朝になっていたのだ。
「朝か、、、。」 そう思って立ち上がった時ぼくは驚いた。
つい夕べまで確かに痛みが激しくて置き場所が無かった左足が静まっている。 何歩歩いても痛みが出てこない。
立っているだけでも苦痛はひどかったのに何時間でも立っていられそうだ。
そのことを友人に話すと「すげえなあ。 良かったやん。」って喜んでくれた。 それでぼくは決意したんだ。
「この宗教は本物だ。 やるしかない。」ってね。
そんなぼくの体験も併せてこのエッセーを書いていきたいと思う。
最初に書いておきたい。 自分がこうだったからといって皆さんに「これをやれ。」とは言わないし言えない。
また宗教を勧めることが目的でもないし自分の体験を自慢するために書いていくわけでもない。
「こういう人も居たんだな。」って思ってくれればいいと思う。
では始めましょうか。



