深夜の静けさが東京を包み込む中、泰雅の邸宅のテラスには、風に揺れるグラスの音だけが響いていた。
彼と美里は、ディナーの余韻を残したまま、夜景を眺めていた。
「やっぱり……東京の夜景って、どこか強がってるように見えるんです。」
そう言って笑った美里に、泰雅は微笑を返す。
「強がってる?」
「はい。眩しくて綺麗だけど、どこか寂しそうで。でも、あなたとこうして見てると……あたたかく見える。」
その言葉に、泰雅は何かを噛みしめるようにグラスを置いた。
「美里……」
呼ばれた名に、胸が微かに波打つ。
そして、その直後だった。
「ただいま。」
低く響いた男の声が、静寂を切り裂いた。
テラスの入り口に立っていたのは、端正なスーツ姿の男――泰雅の父、会長だった。
「……父さん。」
泰雅が立ち上がり、美里も慌てて席を外そうとするが、それを制するように会長が手を上げた。
「かまわん。続けてくれたまえ。」
その言葉に、場の空気が張り詰める。
視線の奥にあるもの、それはただの帰国の挨拶ではなかった。
「CEO就任、おめでとう。報告くらい、直接くれても良かったと思うが。」
「急だったから。……でも、報告するつもりだった。」
「そうか。では今、報告を聞こう。君の未来と、この女性の関係について。」
美里は息を呑んだ。
会長の視線が、冷たくはないが鋭い。
「彼女は、私の大切な人です。」
「それは聞かずとも分かる。では、“公の場に立つにふさわしい”と君は判断したのか?」
その言い回しには、明確な試す意図が含まれていた。
「はい。何より、私の人生において“心の支え”になってくれる存在です。」
「……ふむ。」
しばしの沈黙。
会長はゆっくりとグラスの水をひと口含み、そして唐突に切り出した。
「婚約話がある。御曹司として、次代の礎を築く相手として、ふさわしい女性だ。」
「その話は受けません。」
「……即答だな。」
「心が決まっています。父さんの望む“型”には、もう僕は収まれない。」
会長は美里に目を向けた。
そのまなざしには、値踏みというより“本物かどうか”を見極める静かな圧があった。
「彼女の何を見た?」
「目を見て、“愛されている”と分かった。……それだけで十分です。」
しばらく会長は何も言わなかった。
やがて、ふっと力を抜いたように椅子に座り直す。
「いいだろう。だが、君が選んだその道には、甘えは許されん。美里さんも、どうか覚悟を。」
「はい……私は、覚悟しています。」
その声は震えていなかった。
真っ直ぐに、彼女の目は会長を見ていた。
テラスの上に、遠雷の音が響いた。
夏の嵐が、静かに近づいていた。
遠くの空を切り裂く稲光が、夜の庭を一瞬だけ白く照らした。
美里の肩をそっと包んだ泰雅の腕は、どこまでも頼もしかった。
彼の言葉の強さ、真っ直ぐさ、そしてこの手のぬくもり――すべてが、美里に「信じていい」と伝えていた。
「……ご無礼を、失礼しました。」
美里は会長に向かって頭を下げた。
自分が今、この家のどこに立っているのかを、痛いほど実感していた。
──私は、泰雅さんの“世界”に、まだ完全には溶け込めていない。
けれどその不安は、すぐに払拭される。
「もう、謝らなくていい。」
泰雅の言葉は、凛と響いた。
その口調には、もはや“息子”としての迷いはなかった。
「彼女は、僕にとって“選んだ未来”です。父さんが築いてきた過去を否定する気はありません。でも、僕は僕の道を歩きます。」
会長はグラスを置き、立ち上がった。
沈黙のまま数歩、美里の前に進み出る。
「……“心をつなぐ鍵”。懐かしいな。」
「えっ?」
美里が思わずペンダントを握る。
それは泰雅から贈られたもの、彼の亡き母の形見。
「それは……彼女に託したのか。」
「はい。」
「……なら、もう何も言うまい。」
一瞬だけ、会長の目に哀しみが過った。
そしてそれが、ふいにほどけるように穏やかになる。
「昔、あの鍵は“愛の証”として私が妻に贈ったものだったよ。……泰雅、お前はあの人に似てきたな。」
そのまま、会長は部屋を出て行った。
背中に滲んでいたのは、父としての未練か、男としての誇りか。
そのどちらとも取れる、静かな背中だった。
静寂が戻ったテラスで、美里は小さく息を吐いた。
「緊張しました……でも、不思議と怖くはなかったです。」
「君が真っ直ぐだったから、父さんも本気になった。……ありがとう。」
泰雅は、美里を優しく引き寄せた。
空からひとつ、雨粒が落ちてくる。
ふたりの額の間に、冷たい感触が降り立つ。
「……降ってきましたね。」
「でも、大丈夫。」
泰雅が上着を脱いで、美里の頭にそっと被せる。
「俺が守るって、決めたから。」
そう言って笑った彼の横顔は、光に濡れてもなお温かかった。
まるでこの雨さえ、祝福のシャワーのように思えるほどに。
【第11章『心の中の秘密』 終】
彼と美里は、ディナーの余韻を残したまま、夜景を眺めていた。
「やっぱり……東京の夜景って、どこか強がってるように見えるんです。」
そう言って笑った美里に、泰雅は微笑を返す。
「強がってる?」
「はい。眩しくて綺麗だけど、どこか寂しそうで。でも、あなたとこうして見てると……あたたかく見える。」
その言葉に、泰雅は何かを噛みしめるようにグラスを置いた。
「美里……」
呼ばれた名に、胸が微かに波打つ。
そして、その直後だった。
「ただいま。」
低く響いた男の声が、静寂を切り裂いた。
テラスの入り口に立っていたのは、端正なスーツ姿の男――泰雅の父、会長だった。
「……父さん。」
泰雅が立ち上がり、美里も慌てて席を外そうとするが、それを制するように会長が手を上げた。
「かまわん。続けてくれたまえ。」
その言葉に、場の空気が張り詰める。
視線の奥にあるもの、それはただの帰国の挨拶ではなかった。
「CEO就任、おめでとう。報告くらい、直接くれても良かったと思うが。」
「急だったから。……でも、報告するつもりだった。」
「そうか。では今、報告を聞こう。君の未来と、この女性の関係について。」
美里は息を呑んだ。
会長の視線が、冷たくはないが鋭い。
「彼女は、私の大切な人です。」
「それは聞かずとも分かる。では、“公の場に立つにふさわしい”と君は判断したのか?」
その言い回しには、明確な試す意図が含まれていた。
「はい。何より、私の人生において“心の支え”になってくれる存在です。」
「……ふむ。」
しばしの沈黙。
会長はゆっくりとグラスの水をひと口含み、そして唐突に切り出した。
「婚約話がある。御曹司として、次代の礎を築く相手として、ふさわしい女性だ。」
「その話は受けません。」
「……即答だな。」
「心が決まっています。父さんの望む“型”には、もう僕は収まれない。」
会長は美里に目を向けた。
そのまなざしには、値踏みというより“本物かどうか”を見極める静かな圧があった。
「彼女の何を見た?」
「目を見て、“愛されている”と分かった。……それだけで十分です。」
しばらく会長は何も言わなかった。
やがて、ふっと力を抜いたように椅子に座り直す。
「いいだろう。だが、君が選んだその道には、甘えは許されん。美里さんも、どうか覚悟を。」
「はい……私は、覚悟しています。」
その声は震えていなかった。
真っ直ぐに、彼女の目は会長を見ていた。
テラスの上に、遠雷の音が響いた。
夏の嵐が、静かに近づいていた。
遠くの空を切り裂く稲光が、夜の庭を一瞬だけ白く照らした。
美里の肩をそっと包んだ泰雅の腕は、どこまでも頼もしかった。
彼の言葉の強さ、真っ直ぐさ、そしてこの手のぬくもり――すべてが、美里に「信じていい」と伝えていた。
「……ご無礼を、失礼しました。」
美里は会長に向かって頭を下げた。
自分が今、この家のどこに立っているのかを、痛いほど実感していた。
──私は、泰雅さんの“世界”に、まだ完全には溶け込めていない。
けれどその不安は、すぐに払拭される。
「もう、謝らなくていい。」
泰雅の言葉は、凛と響いた。
その口調には、もはや“息子”としての迷いはなかった。
「彼女は、僕にとって“選んだ未来”です。父さんが築いてきた過去を否定する気はありません。でも、僕は僕の道を歩きます。」
会長はグラスを置き、立ち上がった。
沈黙のまま数歩、美里の前に進み出る。
「……“心をつなぐ鍵”。懐かしいな。」
「えっ?」
美里が思わずペンダントを握る。
それは泰雅から贈られたもの、彼の亡き母の形見。
「それは……彼女に託したのか。」
「はい。」
「……なら、もう何も言うまい。」
一瞬だけ、会長の目に哀しみが過った。
そしてそれが、ふいにほどけるように穏やかになる。
「昔、あの鍵は“愛の証”として私が妻に贈ったものだったよ。……泰雅、お前はあの人に似てきたな。」
そのまま、会長は部屋を出て行った。
背中に滲んでいたのは、父としての未練か、男としての誇りか。
そのどちらとも取れる、静かな背中だった。
静寂が戻ったテラスで、美里は小さく息を吐いた。
「緊張しました……でも、不思議と怖くはなかったです。」
「君が真っ直ぐだったから、父さんも本気になった。……ありがとう。」
泰雅は、美里を優しく引き寄せた。
空からひとつ、雨粒が落ちてくる。
ふたりの額の間に、冷たい感触が降り立つ。
「……降ってきましたね。」
「でも、大丈夫。」
泰雅が上着を脱いで、美里の頭にそっと被せる。
「俺が守るって、決めたから。」
そう言って笑った彼の横顔は、光に濡れてもなお温かかった。
まるでこの雨さえ、祝福のシャワーのように思えるほどに。
【第11章『心の中の秘密』 終】


