愛華の次のピアノコンクールで弾く曲が決まった。コンクール自体はまだまだ先ではあるが、少しずつ練習を進めなくてはならない。


 今回の愛華の課題曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番「愴悲(ひそう)」。物静かで情緒溢れる第二楽章が有名ではあるが、愛華は第二楽章よりも第一楽章が気に入っていた。


 悲愴というタイトル、なんだか今の愛華にはぴったりであるような気がした。


 心の整理もつかず、思い切り前を向くこともできない今の気持ちを、愛華はピアノにぶつけることくらいしかできなかった。




 その日、ピアノ教室で久しぶりに麗良の姿を見付けた。


「あ、麗良ちゃん!」


 愛華が声を掛けると、麗良は一瞬睨みつけるような鋭い目をこちらに向けてきた。しかしそれも一瞬のことで、もしかしたら見間違いだったのかもしれない。


「愛華ちゃん、久しぶり!」


 麗良はいつものように可愛らしいお人形のような笑顔を浮かべる。


(あ、やっぱり気のせいだった。私が誰か分からなくて目を細めただけだったのかも)


 楽譜がぐしゃぐしゃにされたり、破られていたりと、少しだけ麗良を疑ってしまった自分を、愛華は反省した。


 麗良はパタパタと愛華に駆け寄って来ると、声を潜めて話し出す。


「そうそう愛華ちゃん!ずっと訊きたかったんだけど」


「うん、なあに?」


「愛華ちゃんって、水原くんと付き合ってたりする?」


「えっ!う、ううん、付き合ってないよ」


 水原から告白はされたが、付き合ってはいない。愛華は水原からの告白をずっと保留にしていた。そろそろはっきりさせなくてはとは思っているのだが。


 愛華の返答に、麗良はほっとしたように大袈裟に息をついた。


「良かったぁ…そうだよね!付き合ってないよね」


「う、うん…」


「二人って昔から結構仲良さそうだし、最近なんか距離感おかしいかなって思ってたんだけど、麗良の勘違いだったみたい」


 麗良が嬉しそうに饒舌であったので、愛華は口を挟む余地なく相槌だけを返す。


 麗良は笑顔のまま、こう続けた。


「水原くんに愛華ちゃんじゃ、釣り合わないもんね!」


「え…?」


 愛華は驚いて麗良を見つめるも、彼女は可愛らしい笑顔のままだ。