櫂が川底を突いた。
「さあ、天への舟旅は此處迄です。
元の世界へ戻りますよ、を客さん」
舟が元來た川を下り出す。
凛羽に向かつて深く頭を下げた。
遠ざかつてゆく凛羽が編み笠を外すと、忍さんの帽子を被つて微笑んで見せた。
川をゆうるりと下つて行く。
次第に小さくなつて行く水上商の舟。
置いてきた品々に、心の中で別れを告げた。
手袋と帽子を失つた僕の手と頭は、風がある訳ではないのに何處か涼しくて少しばかり寂しい。
此れから何よりも、彼(あ)の萬年筆が失はれたことに氣附く度、今以上に切ない氣持になるのだらう。
いいや、其れ以上に價値の有ることが此の川で出來たに違いない。
「玲羽君、有り難う。僕は夲當に心から君にお禮を言ひたい」
玲羽のにこやかな声が響く。
「何、お禮を言はれる程のことぢやありませんよ。
人は誰でも行きたい場所を求めてるもんです。
僕もを客さんも其の想ひに乘つて、此の川を渡つたんですよ。
橋渡しは何時も想ひの有る處にゐますから。
だから、を客さん。
僕が必要になつた時は、行きたい處が有ると其の心に祈るだけでいいんです。
さうですね、出來れば川邊が良い。
さうさう、手形を忘れづにお願いしますよ」
わかりました、と言つて笑つたのを覺へてゐる。
だのに、其の後の記憶が一切ない。
僕が其の後氣を取り戻したのは、凡そ丸二日後で、僕はM驛にゐた。
手にはしつかりと通行約束手形が握られてゐた。




