続けざまに帽子を取つて差し出した。
「此れで忍さんの分の通行約束手形をお願いします」
「其れは想ひ出が餘り詰まつてゐないやうです。他の品物はありませんか」
さう言はれてみると、確かに帽子には手袋ほどに執着を感じてゐない自分に氣が附いた。
旅行鞄を開けてみる。
忍さんに貰つた着物、去年から使つてゐる三年手帳。
ノオト、母から貰ったお守り。返さづに持つて來て了つたアンドリウ・ヘイケンズ。
一つ一つ眺め乍らどれが良いかと惱んだ。
手は自然と何時も使つてゐる萬年筆を取つた。
此れは書生になつてから初めて短編の小説を書き上げた僕に、榎夲先生が贈つて呉れた高價な品だ。
其れから僕は、何時も此れで原稿を書いてゐた。
旅の間、母に送る手紙も、先生に送る手紙も此れで書いた。
物を書く時、此の萬年筆が必づあつた。
此れを手放すのか思ふと、胸がきゆつと痛んだ。
でも此れなら間違ひなく、忍さんの通行約束手形を貰へるだらうと感ぢた。
「お願いします……」
小さく笑みを浮かべると、少女は大切さうに萬年筆を受け取り胸に仕舞つた。
先ほどと同じやうに手形を取り出すと、さらさらと書いて僕に渡した。
――戸尾江忍。行き先天。――
僕と玲羽も同じことを繰り返す。
「お願いします」
「然るべく」
少女にお禮(れい)を言ほうと向き直ると、目の前にもう一枚の手形がつとを差し出された。
「此れは?」
「萬年筆に込められた想ひ出にはとても價値があります。
戸尾江忍の分だけでは貰い過ぎるので、一番良い手形を作らせて貰いました。
此れは貴方の手形です」
――渡邊和樹。何處からでも何處へでも――
思はずくすりと笑つて了つた。
何ともおおらかな行き先だなあと思つた。



