「を客さん、行きますよ」
少年が櫂を漕ぎ出した。
僕は言葉を失つてゐた。
當りを見渡しても、何一つない。
ただ眞つ白な世界が続いてゐる。
景色が何もなかつた。
川だけがただ白い世界の中をゆるゆると揺れてゐる。ぼんやりとした奥行きが其の川が遥か先迄続いてゐることを示してゐた。
答へを求めるやうに少年を仰いだ。
「怖がることはないですよ。舟から落ちなきや死ぬことはありません」
さう言はれてそつと水面(みなも)を覗(のぞ)いた。
黑々とした水鏡に僕と少年の影が映つてゐる。
「水にはあんまり觸れない方がいいです。
此の當りはまだ濁つてますから。天に近づくにつれて透明度が增(ま)して美しい水底が見られますよ」
知れず、大きな溜息が出た。身體の芯が小さく震ゑてゐる。
もしや此れは三途の川と言ふものなのだらうか。
此の世ではない世界に來て了つたのだ。さう僕は理解した。
眞つ白な景色の川下り、いや川登り。
兎に角舟は静かに淀みなく進んだ。
暫くの間、櫂を囘す音だけが響いてゐた。
不思議なもので呆然とし乍らも、我が身に起こつてゐる亊實を認められるやうに、徐々に心の準備が整つてくる。
「天津川は夲當に天に繋がつてゐるんですね……。
人は死んだら……、此の川を登るんですね……?」
「天津川だけぢやありません。
川は必づ海に繋がつてゐるでせう。
同じやうにどの川も流れも、天へと繋がつてゐます。
まあ、天へ行ける人に限つた話ですがね」
ゆつくりと進む舟に身を任せて、水音とひたすら続く川の流れに神經を預けた。
氣候は不思議と寒くはなく、僕は手袋を外した。
其處には時間と言ふ感覺がなかつた。
とても長かつたやうにも感ぢるし、はたまたほんのわずかな時間だつたやうな氣もする。
景色に変化がないから餘計にわからなかった。
兎に角、氣が付くと川の水が澄み始めたのだのだ。
ほぼ同時にうつすらと霧のやうなものが立ち込めて來た。
「ほら、水底を見てご覧なさい。もう水に觸(さわ)つても平氣ですよ」



