船頭は近くの舟着き場の渡り板に舟を寄せて顏を上げた。
やや小柄な男だなと思ったが、編み笠の下はまだ幼いやうな輪郭だつた。
船頭の少年は人懷こさうな笑顏を見せた。
眼眉がはつきりとしてゐて左目の眞下に黑子があつた。
「ええ。渡しは春から秋が殆どなんですが、僕はずうつとやらせて貰つてゐます。
其れに冬は此の天津川が天へ開けるんでね」
思はづ少年の顏を見詰めた。
誰が好き好んで冬の川を渡るのだらうか。
雪見舟は其れは其れで良いものだらうが、此の暖かい國にさうさう雪は降るものではない。
變はり者も良い處だ。
變はりついでに、少年は確か天へ開ける、と言つた。
をかしさに少し笑つて了つた。
「を客さん、信ぢてゐませんね?
僕は昨日だつて一昨日だつて、を客をお運びしたんですよ」
「いや、すみません……。雪もないのに、冬の川遊びの何がそんなに面白いのかと」
不意に少年が胸元から帳面を出した。
「ほら、此れを見て下さいよ。昨日と一昨日の記録です。
お一人ずつ天迄お聯(つ)れしてるでせう」
何か聞き間違へたのではと思つた。
帳面を受け取ると、其處には日附と共にを客さんの名前と行き先が記されてゐた。
何でもないやうな人名の隣にはつきりとした文字で其の行き先が、天と書かれてゐるのを見た。
「天て言ふのは、此の當りの地名ですか?」
「天と言へば、天ですよ。他に何處に在るんです」
少年は何を當り前なことを、と言ふやうに笑つた。
頸を傾げるしかなかつた。
天とは天上、即ち神(かみ)や佛(ほとけ)の世界を表す言葉だけれど、まさか少年は其の天を言つてゐるのだらうか。
「其那に疑うのなら、を客さん、途中迄お乘せしませうか?」
此れ迄起こつた不思議な出來亊が急に頭を駆け巡り、警戒した僕の足は後退(あとさず)つてゐた。
「いや、バスの時刻がありますし」
「大丈夫。其のバスに乘れるやうに戻つて來ますよ」
少年が僕の腕を取つたので、益々慌てた。
「お金もありませんし……」
「天が終着點(しゅうちゃくてん)のを客さん以外から代金は頂きませんから」



