ふと薫子が何か傳(つた)へたがつてゐるのではないかと思つた。
何故薫子は僕の前に現れたのだらう。
其れにはきつと意味があるのだらう。
さう思つて見てゐると薫子は兩手を自分の胸に當てて瞳を閉ぢた。
そして自分を抱くやうにして見せた。
僕の豫想とは違つて、薫子の顏はずつと穏やかだつた。
日光室の薫子を見上げてゐた時と同じやうに、彼女は笑みさへ浮かべてゐる。
何となく、梅毒と言ふ病にかかつて死んで了つたけれど、薫子は其の相手を愛したことを後悔してゐないのではないかと思へた。
だので今も薫子は美しい儘の姿でゐられるのではないだらうか。
眞剣に人を愛し、相手を恨むことなく、苦しみや後悔で心を穢すことなく死んでゐつたことを、誰かに分かつて慾しかつたのではないか。
僕にはさう感じられた。
すると其れが正解だとでも言ふやうに、薫子はふんわり笑つて見せた。
矢庭に薫子は指をさした。其處には手鏡が在つた。
はつとした。
薫子は此處から僕を逃がさうとしてゐるのだ。
サイドテエヴルに伏せられてゐる手鏡を後ろ手に取つた。
其れをベツト落とし、シイツを捲つて鏡を包んだ。鏡面に肘を當てる。
ぱきりと小さな音がした。
シイツを剥がし割れた鏡の缺片(かけら)を取つた。
幸運にもさほど時をかけずに缺片で縄を解くことが出來た。
足の縄と口の當て布を外した。
「兎に角和樹さんを殺すのよ! 私達の名誉を守るにはもうさうするしかないわ!」
「早まるんぢゃない! 彼はいづれ此の土地を去る人間だ。
彼には骨を見られただけぢゃないか。
彼は薫子が梅毒で死んだ何てことは知りはしないのだ。今なら何とか丸め込めるだらう」
「其れでも彼が此のことを誰かに話すかも知れない!
其れが誰の耳に入るか分からないわ。さうしたら薫子の死因が言及されるに違いないわ!」
「しかし……、殺すのは不味い……。林眞人の死體を隠すのに、僕がどれ程苦心したか等、君は知るまいね!」
夫妻はまだ言ひ争つてゐた。
逃げ出す爲に扉の側に來たものの僕には如何にも勇氣がなかつた。
萬が一、此の扉がぎいと音を啼らしたら、僕は直ぐにでも見つかつて了ふだらう。
さう思ふと恐ろしくて扉に觸れることが出來なかつたのだ。
しかし、思ひも寄らぬことはさらに続いた。
突然風もないのに、扉が何の音もなく、すうと開いたのだ。
吹き抜けに燦々(さんさん)と煌めくシヤンデリアの光が目に刺さる。
暫く目をしばたいて光に慣れるのを待つた。
再び目を開いてみると、廊下の先には薫子がゐた。
多分、彼女だらう。



