「和樹君、俺が如何してKロワイヤルホテルの最上級の部屋を借りれると思ふ?
さうだよ、彼の人が全て支援して下さるのだ。
芸術家は常に最高のものに觸れなさい。其れが彼女の考へ方さ。
彼女が目に掛けてゐる芸術家は俺の他に、劇作家やチエリスト、其れから變つた處でマリオネツトの作家何かもゐたかな。
君も峰子夫人とは宜しく附き合うと良い。
君の執筆活動に強力なパトロンになつて呉れるよ。
サロンの面々が君に餘(あま)り多く話しかけやうとしなかつたのは、峰子夫人への氣遣いさ。
彼のサロンに招かれる人達は其處の處を心得てゐる。
彼らは夫人に遠慮して、夫人より先に君と親しくなることを避けたのさ。
でも彼らの目は君に興味津々だつたよ。氣附かなかつたかい?」
心底驚いた。
忍さんは彼れだけ素晴らしい演奏をし、參加者と親しく話す間に其のやうなこと迄洞察してゐたとは。
僕にはまるで場違いで、現実から遥かかけ離れた夢か幻のやうな世界に、ただぼんやりとしてゐたというのに。
其れに昨日の酒が抜けておらづ調子が良くなかつたし、さうはいつてもやはり緊張もしてゐた。其んなことを後から聞かされても、ちつとも其那氣がしなかつた。
だとしても、唯一救われたのは、F村で起こつた悲慘(ひさん)な出來亊とは天と地に思へて、其れについてはとみに有難いやうに思はれた。
其の日も忍さんの部屋に泊めて貰つた。
夜、峰子夫人から電話があつた。
電話を受け取つた忍さんが僕にウインクして見せた。其那仕草がまた様(さま)になる。
「明日の午後、ドイツ文學の勉強會(べんきょうかい)をやるさうだよ。良かつたら來ないかつて、君に」
「僕、ドイツ語は……」
「なあに、其那高度なこと等やるものか。皆集まつてただ君を愛でたいだけさ」
さう言はれると行つてみやうと言ふ氣が削がれた。
一個人の見解を戦はせやうと言う爲に呼ばれるのではなく、観賞用として呼ばれることが侮辱のやうに思へた。
其れが顏に出たのか、忍さんはまたふつと笑つた。
「まあ、好機を生かすも殺すも自分次第。天に与へられた美德も同じことだよ」
一晩考へて結局行くことにした。
用亊が有るとかで忍さんは一緒ではなかつた。昨日ハイヤアで通つた道を歩いて屋敷へと向かつた。
屋敷の前に着くと、昨日人影が見へた彼の窓に、昨日と同じやうに少女がゐた。彼女は僕に氣附くとやはり微笑んで、可愛く手を振つた。
少し垂れ目が似てゐる。きっと高岡夫妻の娘なのだらう。
會釋を返して屋敷のベルを啼らした。
「お待ちしてましたわ」



