「矢張り忍さんのヴアイオリンは違うわ。惹き込まれるもの」
「有り難う御坐います、利代子夫人。
此の曲は來月大阪で演奏することになつてゐるのです。さう言つて頂けると大變励みになります」
「まあ! 其れは必づ行かなくちや。ねえ、貴方」と夫人。
「嗚呼、さうだね」と其の夫君。
其の様子を僕は別世界のやうに眺めてゐた。
全く何から何までが上流階級。
どうして僕が此處にいるのか不思議だ。
忍さんが僕を振り返った。
「如何だつた? 和樹君」
夢から覺めたやうな心地になつて一瞬言葉を失つた。
「……とても、忍さんが美しく見へました。全身から旋律が溢れ出すやうで……」
頭の中でゆつくりと演奏を再現し乍ら感想を述べた。
忍さんが、にこりと微笑みを返して呉れた。
何だか其れが嬉しい氣がした。
其の後、もう二曲演奏すると、此れから練習が有るからと言つて引き揚げた。
一緒に屋敷を出て、僕らは歩いて歸ることにした。
玄關を出て直ぐに大きな屋敷を振り返つた。
ふと二階の窓の一つから誰かが外を眺めてゐるのが見へた。日光室では見なかつた顏だ。
黒い髪を肩から胸の位置で切りそろえた女の子だつた。
彼女は僕に氣附くと、微笑んで見せた。僕は慌てて會釋(えしゃく)を返した。
「和樹君、君、良かつたよ」
「え?」
「きつと高岡家からまたご招待があるよ。君は峰子夫人に氣に入られたのだ」
もう一度聞き返して了つた。
上手く自己紹介も出來づ、參加者とも大して口も利いてゐない。
氣に入られたなんでとんでもない。
峰子夫人は主催者(ホステス)として氣を利かせて呉れただけだなのだ。
「其那少し鈍い處も、夫人は氣に入るだらうね。
しかし俺の演奏に對(たい)する君の感想は良かつた。
誰にでも分かる言葉で感ぢたことを有りの儘に答へた。流石は物書きと言ふべきかな。
實はね、ああやつて皆音樂を聴きに集まつてゐるけれど、夲當にクラツシツクを理解してゐるのは峰子夫人位のものだよ。
他の人は俄か仕込みの知識何かで言葉を飾るのだ。
でも峰子夫人は生粹の華族の血筋で海外での暮らしも長かつた所爲か、若い頃から音樂だけでなく色んな芸術に造詣が深い。もう體(からだ)で音樂と言ふものが解つてゐる。
勿論知識も彼のサロンの中では飛び抜けてゐるけれどね、其れをひけらかしたりしない處が良い」
「はあ……」



