「和樹君、直ぐに着替へて、出掛けるよ。
え、其れしか着物がない? 其れぢゃあ僕のを、いや洋服は駄目だ。君の方が脊が高い。
此の着物は如何だらう。
此の茶に、さうだ。君の持つてゐた彼のグリンの襟卷を合はせたら、うん、好い。
ご婦人方が好きさうだ。
帯は是れだ、いやこつちの焦げ茶色のはうが具合が好いだらう」
忍さんは自分の着物を僕に与へると、テキパキと顏を洗い歯を磨き、グレイのスウツに水色のストライプシヤツ、其れに濃赤のタイを締めお揃ひのハンカチイフを胸に差すと颯爽(さつそう)とヴアイオリンを手にした。
「さあ、和樹君行かう」
何も分からない儘忍さんの後を追つた。
煌びやかなホテルのロビイを早足に過ぎ去つて、忍さんはハイヤアに乘り込み、僕も氣後れし乍らも急かされる儘に乘り込んだ。
何處へ行くんですか、と言ふ僕の質問に、忍さんは見た方が早いと言つてふつと笑つた。
とてもスマアトで格好の良い笑ひ方だつた。僕も此那ふうに笑へたらいいのにと、少し憧れて了ふ。
車が止まつたのは白い壁の洋館だつた。
車を降りると忍さんは襟を正しスウツの皺を伸ばした。
そして僕を見ると、僕の襟口と襟卷を整へた。
「社交の場では第一印象が大亊だよ。何、緊張することはない。
話したくないなら君は默つてゐたつて良い」
忍さんがお屋敷のベルを啼らした。
思はづ目を見張つて了つた。玄關を入ると其處は廣い吹き抜けになつており、左手には靑い絨毯の敷かれた階段が在る。
使用人の女性に案内されたのは日光室(サンルウム)だつた。
「やうこそ、忍さん。もう皆様お待ちかねよ」
迎へたのは其の屋敷の主高岡(たかおか)傑(すぐる)氏の細君、峰子(みねこ)夫人だつた。
部屋には立派な洋装と訪問着に身を包んだ無數の男女がゐた。
僕が扉を閉めやうとすると峰子夫人が其れを止めた。
「ドアは開けた儘にしておいて下さる? 忍さん、そちらはどなたかしら」
「ご紹介差し上げます。僕の友人で渡邊和樹君と言ひます。
彼(かれ)は彼(か)の榎夲玄明先生の書生をしてゐる將來有望な文筆家の卵です。
昨日こちらへやつて來たばかりですから、西の芸術に就いて色々と敎へて頂ければと思ひます。
また高岡さんも日頃何時もの顏觸れでは皆様に飽きられて了ふのではと惱んでおられましたが、和樹君は今日のサロンに新風を吹き込んで呉れることでせう」



