キヌタ様が自分の着物の襟(えり)をぐいと廣げた。
病的な迄に白いの鎖骨が露はになると、其處には眞(ま)つ紅(か)な菊の刺靑がくつきりと附いてゐた。
「私の一族は、皆此の印を持つのよ。ほら」
さう言ふと黑い着物の男達を示した。
男達は各々着物を捲(めく)つて腕や頸を見せた。其處には寸分違はづキヌタ様と同じ紅色の菊の印が有つた。
此の儘キヌタの一族に加へられて了つたら、彼(あ)の紅い菊の刺靑をされるのだらうか。
僕の頸筋から腰骨にかけて、ぞくぞくと涼しいものが通つた。
抗いがたい恐怖と色香に混亂(こんらん)してゐた。
今考へてみても、如何して其那言葉が僕の口から出たのかわからない。
僕の思考は、縛られたやうに麻痺して停止してゐた。
「ベ……紅(べに)菊(ぎく)……」
其の瞬間だつた。
キヌタ様が矢庭に叫び聲を上げたのだ。
「ああああつ! 何故(なぜ)私の名前を知つてゐる!」
キヌタ様……否、紅菊は突如として前のめりに倒れ込んだ。
何が起こつたのか分からなかつた。
黒服の男達は僕を放り投げて紅菊の元へ走つた。
紅菊は苦しさうにもがき続けてゐる。眉間に引き攣(つ)つた皺(しわ)、剥き出しの牙と赤々とした歯茎、突如として燃へるやうに充血した眼、鷹のやうに空を切る爪。まさに鬼。
夲當の怪物のやうな發狂に僕の芯は凍り附いて、其の場に轉がつた儘身動き一つ出來なかつた。
黑服達はさつと紅菊を抱へると山の中へ素早く駆けて行つた。
其の一人が僕に一瞥(いちべつ)を呉れて行つた。
まるで嵐が駆け抜けて行くやうな瞬く間の出來亊だつた。
足場の緩くなつた其の墓地で泥にまみれた儘、僕は放心した。
暫くして再び激しい雨が降り始めた。
僕は相變(かわ)はらづ氣が弱く、度胸がなく、自分でも夲當(ほんとう)に厭になつて了ふ。
情けなかつた。
かうして旅の想ひ出を覺書(おぼえがき)として認(したた)め乍ら、ただただ己の恥を告白してゐるだけのやうな氣がする。



