鳥渡どきりとして少年を見た。彼はにやりと笑つたきり、其の理由を言はなかつたけれど、僕の風貌や態度から其れを敏感に察したのだらう。
思へば賢治(けんぢ)少年は頭の囘轉(かいてん)の速い子供だつたやうに思ふ。
「俺、賢治。兄ちやん、名前は?」
「僕は渡邊和樹」
「ぢやあ和兄。案内してやるよ」
白い歯が眩しい。人懷こさうな笑顏だつた。
「うん、賴むよ」
暫く行くと、追分(おいわけ)と言ふ停留所で賢治は下車を促した。
僕は彼(あ)の紳士と婦人、其れに運轉手さんに挨拶をしてバスを降りた。
追分と言ふ名前は各地でよく目にするけれど、此處の追分も例に漏れづ二つの道の分岐點(ぶんきてん)にあつた。バスは左の道へ去つて行つた。
「左は笹啼(ささなき)つて言つてH町の中心街程ぢやあないけど、向かうにも別荘が幾つも在るんだ。で、右は笹(ささ)貫(ぬき)。俺の住んでるF村は笹貫の先にあるんだ」
僕はへえと言つたけれど、F村何て名前を聞いたことがなかつた。
賢治は野菜の詰まつた籠を脊負うと、こつちだよと言つて歩き出した。
追分停留所からは西も東も涼やかな森林が続いてゐた。其の處々に近代的な高級別荘が趣深く建ち並んでゐる。
僕は建築に詳しくないけれど、彼の様式は都内やK市で最近よく見掛けるアラン・ヘラルド・タイナアとか言ふ外國人建築家の様式だ。
梁と柱部分に赤煉瓦の外壁を設へる特徴が有る。新綠(しんりょく)眩しい小道によく映へる美しい様式だと感心する。
暫く行くと此處だよと言ひ乍ら、賢治は紫苑と言ふ老舗旅館の裏門を潜つた。
「こんちはあ、キヌタです」
賢治の元氣な聲(こえ)に、直ぐ中年の女中が出て來た。
「嗚呼、來たね。待つてたよ」
女中は賢治の籠を檢(あらた)めた。
「いや……、困つたわ。賢の坊、また數が足らないよ」
賢治は唇を尖らしてそつぽを見た。其の様子に女は眉を吊り上げた。
「また途中で食つちまつたんだろ。賢治?」
彼(あ)の蕃茄(トマト)のことだと思つて、氣まずい。
しかしまたと言ふことは、彼は以前も同じことをしてゐるらしい。
「いい加減にしないと、こつちも仕亊なんだ。困るんだよ!」



