【叔父様ノ覚エ書】~叔父様の書物をこっそりと読みましたら、叔父様が殺されたらしいとわかりました。お可哀想な叔父様。待っていてくださいね。美咲がきっと助けて差し上げます…~



 無言で其の繪を見詰めた。

 其れは火よりも明らかにただの油繪(あぶらえ)にしか見へない。

 毎年此の時期だけ花が咲くと言はれても、僕には到底信ぢやうがなかつた。

 僕は此のかた其那不思議なものにお目に掛つたことがない。



「でも今年は如何したのだらうか……。

 庭の櫻が散る頃には何時も此の繪の花も消へて了ふのだが……」



 山岡さんは微笑まれると、其處から離れて行つて了はれた。

 其那ことが現實(げんぢつ)に在るものだらうか。

 信ぢ難い想ひに捉はれ乍らも、僕は畠野明義さんと言ふ畫家の魂が其處に在るやうに思へてならなかつた。

 暫く其の雪景色に咲く櫻を見詰め乍ら、亡き畫家のことを思つた。



 數日後、山岡さんの家を離れることにした。

 纏(まと)めて了ふと元々荷物は少なかつたけれど、部屋はがらんと寂しく見へた。



 ふと畠野さんのことを思ふ。

 此の時、此の町に來なければきつと畠野さんの話を耳にすることも、彼の繪を目にすることもなかつただらう。

 恐らく一生畠野さんを知ることはなかつたらう。

 是は確かに僕と畠野さんとの出會いだつた。

 がらんとして部屋の中で一人感ぢてみる。

 繪に浮かび上がつたと言ふ櫻は、まだ消へてゐない。

 と言ふことは畠野さんはまだ此處にゐるんぢやないだらうか。

 何となく其那氣がした。



「畠野さん……今年の櫻も素敵でしたね」



 ひとりごとが出た。

 言ふ迄もなく、部屋の眞(ま)ん中にゐる僕には靜だけが返つて來る。

 遠くで蝉が啼(な)いてゐた。

 部屋を出て、そつと襖(ふすま)を閉めた。

 それから山岡さんにお別れの挨拶に行つた。



「良い骨休みになつたかい」

「はい、とても」



 山岡さんは、またおいでと仰つて僕を玄關迄見送つて下さつた。


 履物を履いて振り返ると、山岡さんの向かうに彼の繪が見へた。

 そして僕は唖然とした。

 繪の中の櫻は、跡形もなくすつかり消へてゐたのだ。