【叔父様ノ覚エ書】~叔父様の書物をこっそりと読みましたら、叔父様が殺されたらしいとわかりました。お可哀想な叔父様。待っていてくださいね。美咲がきっと助けて差し上げます…~


 


「或る冬のことだがね、彼が暫く顏を見せない時が続いたのだ。

 さうしたら大家が家を訪ねて來た。畠野君が病氣だと言ふのだよ。

 慌てて彼の部屋へ行つたら、畫材や塵や何やらで出來た山の中で彼は寝込んでゐた。

 蒲團(ふとん)の上にさへキャンバスやら筆やらが折り重なつてゐたよ。

 其の頃君が今使つてゐる彼の部屋が空いてゐたからね、私は彼(かれ)を彼(あ)の部屋へ移したのだ。

 醫者(いしゃ)に來て診て貰つたら、彼は風邪を拗(こぢ)らせただけだつた。

 彼は私に申し訳ないと謝り乍ら、彼(あ)の部屋から見へる景色を如何しても描きたいと言つた。

 私は體が治つてからで良いぢやないかと何度も言つたが、彼は決して聞かうとしなかつた。

 外ぢやあ雪か降り積もつてるのに窓を開けつ放しでゐるのだからね、體に良い筈がない。

 でも私も繪を描く者の一人として、描かねばならないと言ふ其の氣持ちが解からないではなかつた。

 私は彼(かれ)の病状が惡化しないやう氣を配り乍ら、創作を見守つた。

 そして遂に彼は此の繪を完成させた。

 しかし其れと同時に彼(かれ)の具合は惡化してね、改めて診て貰つたら風邪ぢやなく勞咳(ろうがい)だつた」



 山岡さんは其處(そこ)で言葉を止めて、櫻の繪を眺められた。



「直ぐ側の峠に勞咳の隔離病院が在るのだが、彼を其處に入院させた。

 彼の親族に聯絡(れんらく)を取ると、彼の姉と言ふ人が訪ねて來た。

 彼は姉に聯れられて故郷に歸つて行つた。

 其の後、人傳(ひとづて)に彼が死んだらしいと言ふのを聞いたよ……」



 當りはしんとしてゐた。

 おタネさんが食器を洗う音さへ、遥か遥か遠くに聞こへた。



「報せを聞いた其の年の春、此の櫻が突然咲いたのだよ……」



 山岡さんはぢつと其の櫻を見詰められてゐた。



「其れ以來、毎年此の櫻は春になると、かうして血が浮き出るかのやうに花が咲くのだよ。

 だから私は此の時期に毎年此の繪を此處に飾ることにしてゐる。

 畠野君が見られなかつた櫻を見に來てゐるやうな氣がしてね」



 僕の身體を靜(しじま)が通り過ぎて行つた。

 俄(にわ)かには信ぢられない話だつた。

 けれど山岡さんが嘘をついて被居(いらつしゃ)るとも思へなかつた。

 山岡さんが初めてお見せになつた何とも寂しげな様子は、演技で出來るものではないやうに思はれた。