【叔父様ノ覚エ書】~叔父様の書物をこっそりと読みましたら、叔父様が殺されたらしいとわかりました。お可哀想な叔父様。待っていてくださいね。美咲がきっと助けて差し上げます…~




 實(ぢつ)は山岡さんのお屋敷には、もう一夲の櫻が在つた。

 屋敷の玄關を入つて直ぐの正面に、百号位有りさうな立派な櫻の木の繪が在つたのだ。

 其れは雪景色の中、黑々とした幹に血を滲ませたかのやうな淡い色で、櫻の花が浮き上がるかのやうに描かれた秀逸なものだつた。

 可憐な印象や生き生きとした感ぢはなく、ぢつとりと物々しいけれども何處(どこ)か儚さを感ぢさせる繪だつた。

 繪に趣深い山岡さんが如何して夏になつても此の雪櫻の繪を飾つてゐるのか不思議で仕方なかつた。



「遂に玄關正面の櫻だけになつて了いましたね」



 其の日、朝食を食べ乍ら山岡さんに言つた。

 彼の繪について色々と話して下さるのを期待してゐただけに、山岡さんが小さく溜息を吐かれたのには驚ゐた。



「如何かされたんですか?」

「いや……、如何と言ふ訳ではないのがね……」



 明らかに山岡さんの様子が何時もと違つてゐらした。僕は何となく其れ以上聞けない儘、默つて食亊を濟ませた。

 其の日僕は、新しい小?の構想を練らうと思ひ、部屋に寝(ね)轉(ころ)がつて庭を見てゐた。

 目に鮮やかな額縁は此の儘切り取つて持つて歸(かえ)りたい位に美しい。

 其の瞬間僕は、はつとした。

 此の構圖(こうず)は何處かで見たことが有る。僕は慌てて部屋を出た。

 記憶の中の構圖を重ね合はせ乍ら、玄關正面の彼の繪を見やうと廊下を行くと、繪の前には山岡さんがぢつと佇んでゐらした。



「あの、山岡さん……」



 山岡さんは振り返ると、少し躊躇つたやうな笑みを浮かべられた。



「如何かしたかい?」

「あの……此の繪なんですけれど……、僕が今お借りしてゐる彼の部屋からの構圖とそつくりだと思つたんですが……」



 すると山岡さんは何も仰らづ、少し笑つて頷かれた。



「是はね、畠野(はたの)明義(あきよし)と言ふ畫家の繪でね。

 君の言つた通り、彼の部屋から眺めた景色を描いた繪なのだよ」

「矢張り……。とすると、此れは櫻が咲いた後に雪が降つた日の景色を繪にしたんですね」



 此の發見に僕は興奮氣味だつたが、山岡さんは複雑な表情をなさつた。

「いや、さうではないのだよ……。

 畠野君はね、若い畫家の中ではまあ何と言ふか、其那に注目されてはゐなかつた。

 ただ私にはね、何か光る物が有るやうに思へてね。

 其の時家には何人かの若手の畫家や作家が下宿してゐて部屋がなかつた。

 だから彼(かれ)は屋敷に程近い處に部屋を借りて私は其の保証人になつた。

 其れからと言ふもの彼は新しい作品が畫けると其れを見せに來ては私の意見を熱心に聞いたり、繪が賣(う)れると彼(あ)の練り切りを買つて寄こしたりと……。

 彼(かれ)の繪が賣れない時には其の繪を買つて、繪の具の足しになるやう少し多めに渡してやつたものだ」



 山岡さんは一つ一つ思ひ出すやうにぢつくりと仰つた。