【叔父様ノ覚エ書】~叔父様の書物をこっそりと読みましたら、叔父様が殺されたらしいとわかりました。お可哀想な叔父様。待っていてくださいね。美咲がきっと助けて差し上げます…~




 程近いS湖に釣りに出掛けた或る日のことだつた。

 櫻が遂に終はりを迎へた。

 早朝から始めた釣りを昼には切り上げて、すつかり靑葉の萌へる並木を山岡さんと歩いた。



「夏模様になつて來たね」

「さうですね。お庭の櫻ももう終はる頃でせうか」

「彼(あ)れは遅咲きの櫻だからね。今年も長く樂しませて貰つたが……」



 山岡さんは少し俯(うつむ)くやうにして歯切れの惡い言ひ方をなさつた。



 屋敷に戻つて、借りてゐる部屋の蒸れた空氣を入れ替へる爲に窓を開け放つた。

 其の部屋の位置から見へる庭は西側にあつて、庭の櫻も窓の枠の中に繪のやうに納まつて見へるのだ。

 もう殆ど葉櫻と言ふ其の木の向かうには盛夏を迎へる準備を整へた山々が聯(つら)なつてゐる。

 胸を晴々とさせるとても眺めの良い部屋だ。



 しかして移りゆく季節が此那(こんな)にも切なく惜しまれるのは何故だらう。

 夏は厭(きら)いではないし、季節が廻るのは當然のことなのだけれど、其れでも櫻の花弁が一つまた一つと散つて行く様子に、僕は寂しさを感ぢない訳にはゐられなかつた。

 其那想ひが溢れて、思はづぽつんと呟いてゐた。



「散つて了ふのかな……」



 其の時窓から急に強い風が吹き込み、僕は思はづ目を閉ぢた。

 風はほんの數秒で治まつたけれど、息が詰まる程の激しい風だつた。

 暫(しばら)くしてそつと目を開けると、窓の前に備へ附けられた文机の上に、一枚の櫻の花弁が舞い落ちてゐた。

 まるで櫻も僕との別れを惜しんでゐるやうに思はれた、何とも詩的な瞬間だつた。



 其の翌日、庭の櫻は遂に散つて了つた。

 僕は其れが如何にも心惜しく思はれて、昨日舞い込んで來た櫻の花弁を大切に手帳の間に挟み込んでおいたものを眺めてみたりした。

 其那何時までもはつきりとしない名殘惜しい想ひの僕が其の櫻に出會(であ)つたのは何の所以(ゆえん)だつたのだらう。



 其れは確かに無念櫻だつた。